良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『五感で楽しむ映画』せっかく映画を楽しむのに「目」と「耳」だけではもったいない。

 朝な夕な、まだ肌寒い日々をだらだらと暮らし、さまざまな名作及びカルト映画を何気なく観ていると、ふとした瞬間に画面に集中しつつも、一方で思い巡らせている時があります。それは映画を「観ている」という時は「目」だけでなく「耳」も、そして、もちろんそれらを統合して理解するために「目」「耳」とともに「頭」も相当働いているということです。  何を今さら当たり前のことを言うのかと思う方もおられるかも知れませんが、トーキー以前では映画はサイレントだったわけでして、楽団や弁士はいたものの映画の作り手たちは基本的に音や台詞に頼らずに、映像だけで登場人物の感情や作り手自身の情念と思想を表現しなければなりませんでした。
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 どうやって表現したかといえば、いわゆるパントマイム的な大袈裟な演技で表すこともあれば、クロース・アップやカット割り、映像の繋がりを重視したモンタージュ、光と影のバランス、または人物の位置関係などを駆使した、いわゆる映像文法を用いていました。  そして観客は脳裏に刻まれてきた、人間生活における常識と経験を用いて、瞬間的にそうして表現された映像を判断していました。当然各々の経験の多寡や深浅により、受け取れる情報量には格段の差は存在します。  そのため意識するしないに関係なく、観客にも想像力、人生経験と演劇などの素養が求められました。昔は地方を巡業する旅回りの劇団がいましたので、観劇の下地は備わっていたはずです。製作者も上手下手、勧善懲悪など演劇の常識を映像制作に使用しました。
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 サイレントに多い固定カメラの視点は劇場での観客のそれです。今の目でサイレントを見ると、その演技はわざとらしく滑稽に映るのかもしれませんが、また基本的に動かないキネティック・パワーの欠如した映像に退屈してしまうかも知れません。  しかしながら、もし現在の映画から音が消えてしまったら、何割の観客が映像の意味を正しく掴めるのであろうか、それははなはだ疑問である。意味を語れていない映像が氾濫している中で、基本に立ち返って、つまり映像文法を理解できるのかはかなり疑わしい。  ちょっと話は横路に逸れますが、日本映画が一部を除き、海外で不振な原因はセリフに頼りすぎることが大きいのではないだろうか。もともと日本語という巨大な言語の壁が海外への飛躍に大きく立ちふさがっているのに加え、映像自体に海外の人々が共感出来る人類としての普遍性がなければ、日本映画の海外制覇は夢のまた夢であろう。  また残念ながら、日本映画界は国内のみで完結してしまっている。最初から世界を相手に戦っていないのである。個人的な見解になりますが、ゴルフを例に取ると、国内の賞金王よりも、アメリカ・メジャーでの八位に価値があるという立場です。同じくテニスを例に取ると、全日本選手権の王者よりも、ウィンブルドンでのベスト16に価値があるという立場です。  なにが言いたいかというと、彼らの視線は常に世界を相手にしているし、頂点に昇るために、努力を惜しまないということです。小さく国内での栄光にしがみつかずに、高レベルのステージで自分の価値を試しています。
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 なぜ日本の有名な映画監督はチャレンジしに海外へ行かないのか。英語が出来ないからなどというのは理由にはならない。黒澤明監督はアメリカやロシアで可能性に賭けました。成功したとは言えませんが、挑戦する行為そのものに大きな価値があります。  巨匠と呼ばれる彼でも、様々な理由があったにせよ、海外を相手に仕事をしてきたのです。心地よい場所で小さく収まらずに、どんどん有名な人々は世界に目を向けて活動してほしい。  話を戻します。映画でよく見られる撮影テクニックのほとんどは1920年代から1930年代に出尽くしていました。そこへ『ジャズ・シンガー』とともに「音」が映画に加わりました。何も考えずに映画を観るきっかけとなったのが、このトーキー技術の登場である。  音楽と台詞で登場人物の感情を容易に表現することが出来るようになりました。またここから凡庸な製作者による台詞で語ってしまう映画もスタートしてしまいました。マイナス面も生まれましたが、「目」と「耳」を得た映画はさらに分かり易さを武器にして、爆発的な支持を大衆から受けていきます。
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 そして、この映画で重要な「目」と「耳」で受け取った情報を解析し、楽しむために必要になるのが知性と感性、そして映画体験を含む人生経験なのではないでしょうか。しかしまだ今回のテーマの五感のうち、視覚と聴覚のたった二つにしか過ぎない。  この二つだけでも、観る者の感情を大いに揺さぶりますが、人間にはまだ触覚・嗅覚・味覚がある。触覚は映画館では音響による振動を感じるくらいでしょうが、他の観客との「袖触れあうも他生の縁」も触覚に含まれるかもしれません。  デートに行ったら、手を繋ながら観ている人もいるでしょう。小さい頃に親に手を引かれ、一緒に連れられて劇場で観た映画も生涯記憶に残っています。立ち見で壁にもたれながら観た映画もありました。野外上映会でスクリーンが風で揺れる映画もありました。風を感じる経験はシネコンでは絶対にない。  こうした「触覚」はたまに思い出すこともある。『ニュー・シネマ・パラダイス』で壁に映写するシーンがあります。みんなニコニコしながら映画を観ている。僕がああいう経験に近いものを味わったのは小学生時代に一度だけでしたが、今でも忘れられない。
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 つぎに嗅覚。芳醇な香りがする「匂う」映画とかが出てきたら楽しそうですね。春の花やプロヴァンスの花畑、もしくはオランダの花畑で、花が満開のシーンなどで、もしそこに咲いている花の香りが館内に溢れたら、なんとも幸せな気分に浸れるでしょう。  新たな流れとして香りのフェチシズム映画が増えるでしょうね。フランス映画などは良いものを作りそうです。ただ『ソドムの市』とかは勘弁して欲しい。誰も最後まで見ていられないでしょう。また酒臭いオッサンや口臭がヒドい輩がとなりに来ると最悪な二時間が訪れる。  また劇場の構造や空気の流れ方によって、トイレの臭いが立ち込める最低のところもあります。映画より臭さしか覚えていない作品もあります。大映系の映画を掛ける映画館でそういうことが多々ありました。  味覚はさすがに劇場では難しい。しかし家でDVDを見ながらなら、また複数回見た作品ならば、そのシーン再生時に同じものを食べたり、飲んだりすることが可能だ。まあ、もちろん味は違うでしょうから、疑似体験にすぎませんが。そもそも映画を観ながら何か食べるという習慣がないので、ポップコーンなんて論外です。  つぎに五感とは言っても、人それぞれ感じ方は違う訳で、音感を刺激するものに激しく感性を揺さぶれる人もあれば、視覚を刺激するものに激しく感性を揺さぶれる人もあれば、知性を刺激するものに激しく感性を揺さぶれる人もあるでしょう。
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 それは各々の感受性によって変わります。それは受動的な個性とも呼べるのではないでしょうか。ここが発達していない人が鈍感、発達している人が敏感なのでしょう。次の段階はそれをどう他人に伝えるかです。アウトプットする、つまり能動的な個性もまたある。  とても良い感じ方をしているのに、他者へアウトプット、つまり意見を述べないのはもったいない。どんどん自分の中にある疑問を他者に向けて発信していくべきでしょう。神様ではないので、みんな間違えるし、100パーセント正しい意見などありえません。