良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『グリード』(1924)シュトロハイム監督の運命を大きく変えてしまった狂気の9時間。

 21世紀も、もうすぐ最初の10年が過ぎようとしている今となっては、エーリッヒ・フォン・シュトロハイムという名前を聞いてもピンとこない映画ファンがほとんどでしょう。僕自身も彼の作品を観たのは『愚かなる妻』『グリード』という二本の監督作品、そして俳優として登場した『大いなる幻影』『サンセット大通り』の二本、合計でも四本でしかありません。それくらいしか観ていない自分がシュトロハイムを語るのもおこがましいのですが、いつまでも逃げていられないので前回の『愚なる妻』と併せて記事にしました。
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 前作である『愚なる妻』ではおもに構図だったり、見た目についてのことを書きました。狂気のリアリズムが強調される彼ではありますが、フィルムに人物や背景がどう映るのかをしっかりと解った上での演技指導と配置であったことは容易に想像がつきます。その延長にして最高傑作となるのがこの『グリード』なので、『愚なる妻』での記事と重複する記述を避けるため、あえて今回は配置の妙やモンタージュについては言及しません。  ひとつだけ言及すると、ザス・ピッツがまさに殺害されようとしている夜のシーンのショット。深夜、街頭の薄暗い灯りがぼんやりと彼女の家の中を照らし出すとき、元夫であるゴーランドは彼女の持つ黄金を奪うために、この家へやって来る。彼はそっと家に近づくが、彼のどす黒い影は窓越しに映し出される。誰が来ているかは元妻である彼女が見ればすぐにわかる。金を奪われるだけでは済まないことも瞬時に理解できる。  誰が来たかは分かるのであるならば、夫の近づく様子を不気味な影にする必要性はないのかもしれません。しかし、この映画はホームドラマではないのです。考えていることが容易に分かる、照明に照らされた顔ではなく、影にすることによって、この夫である人物がすでに以前から知っていた、かつて愛した男ではなく、どす黒い思いを持ち、彼女に危害を加えようとする強欲な男に過ぎないことが観客にも分かる。  ホラー映画ではもっとも古典的なテクニックではありますが、その効果は今でも絶大であり、すでに1920年代から使われていることには驚かされる。そういえば、フリッツ・ラング監督の『M』でも、風船、そして口笛とともに容疑者ピーター・ローレの影も観客を怖がらせる重要なファクターでした。  それはともかく、さきほど言いましたように、ぼくはたった4本しか観てはいませんが、これらの少ない本数でも十分に彼、エーリッヒ・フォン・シュトロハイム監督の凄みとエッセンスは味わえる。サイレント映画黄金時代であった1920年代でも、さすがに彼の完璧主義という名の狂気は他を圧倒していた。  もともと『イントレランス』『國民の創生』『散り行く花』などの傑作で知られる映画界最初の巨匠にして映画の父とも呼ばれるD・W・グリフィス監督に師事していたというのも、彼のその後に待ち受けているであろう過酷な運命を辿らざるを得ない因縁めいたつながりを感じる。  映画は完璧に作らねばならない、妥協はしないというD・W・グリフィス監督のやり方を模範にして、それを実行していったために、この映画『グリード』は結果としてシュトロハイムの監督生命を奪い取ってしまった。なにせ、この映画のオリジナル版は上映時間が9時間にも及ぶ超大作だったのです。
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 今の感覚でいうと、だいたい100分程度の作品が増えていますので、4本か5本を一気に観る感じです。映画館の回転率をまったく考えていない暴挙でもあります。またサイレント期には楽団もついていたでしょうから、人件費を考えても大変な負担となります。  好況に沸いていた当時の理解のある映画会社のプロデューサーや出資者の下であれば、大作を製作するのも良かったのですが、彼を取り巻く環境は彼に対して大いなる受難を与えた。あくまでも商売ありきで映画を製作しているMGMの首脳陣、その中でも、やり手で有名だったアーヴィング・サルバーグにとっては、シュトロハイムのこのような大作主義は迷惑以外のなにものでもなかったでしょう。  またシュトロハイムも一気に超大作を制作しないで、4編程度に分割して纏める考えは皆無だったのでしょうか。彼が貪欲に、せっかく作り上げた超大作はズタズタに切り刻まれ、もとあった9時間のフィルムは4時間版に縮められ、さらに劣悪な編集で2時間に短縮され、残りのフィルムはすべて溶かされてしまいました。  キリスト教の考え方では人間が背負う七つの大罪のうちのひとつでもある貪欲という名のタイトルを負う、この傑作映画『グリード』において、もっとも貪欲だったのは誰だったのだろうか。
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 資金回収を第一として、フィルムを切り刻むことを了承したMGMの大君、アーヴィング・サルバーグと映画で商売する興業主たちか。それとも飽くなき完璧主義を貫き通し、挙げ句の果てに9時間にも及ぶ狂気のフィルムを世に送りだそうとした、エーリッヒ・フォン・シュトロハイムそのひとだったのだろうか。  9時間にも及ぼうとしていたこの映画の全貌を記録していたフィルムはすでに大半が溶かされてしまった。今となっては、誰もこの映画『グリード』の完全な姿を観ることは出来ないので、どちらが正しかったのかは分からない。ただ言えるのはダイジェスト版に過ぎない、この『グリード』のなかにはそれでも大いなる映画のエスプリが満ち満ちているのは明らかである。  このダイジェスト版である2時間のフィルムから残りの7時間を足した真の姿を想像してみるのも、現在の映画ファンに許された、なんともいえない至福の時間となるかもしれない。もしシュトロハイム自身が書いた脚本があるのならば、読んでみたい作品のひとつです。原作としてはフランク・ノリス著の『死の谷』があり、シュトロハイムの映画はこの原作を忠実に再現しようとしていたとのことですので、完全版では原作との乖離は見られないのでしょう。
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 演じていた役者たちの技量もサイレント時代にあって、すでにトーキー、ここではとりわけリアリズムを見据えている。大げさな身振り手振りはかなり制限され、リアリズムへの意志が強く出ている。トリナ役のザス・ピッツはまだサイレントの芝居から脱却できていませんが、主役であるマックティーグを演じるギブソン・ゴーランドは監督の意図をかなり掴んでいたように思えました。その他、印象に残るのは執念と嫉妬の人であるマーカス役のジーン・ハーショルト、 マリア役のデイル・フラーたちでした。そして監督でもあるエリッヒ・フォン・シュトロハイムがチョイ役の風船売りとして出演しています。  しかしあらためて思うのはエリッヒ・フォン・シュトロハイムの溢れる才能である。監督・脚本・出演・美術・編集(ただし4時間半版のほうであり、ズタズタに切り刻んだレックス・イングラムは映画史から葬り去るべきであろう。)に示した彼の才能の幅広さとセンスの卓越性は今でも色褪せない。
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 そもそもグリードというタイトルはキリスト教で挙げられている七つの大罪から起因するのであろう。タイトルの意味は貪欲(または強欲)である。ちなみに七つの大罪とは傲慢・嫉妬・憤怒・怠惰・貪欲・暴食・色欲の七つである。それぞれに受け持ちの大悪魔もいて、ルシファー・レヴィアタンリヴァイアサンのことでしょうか?)・サタン・ベルフェゴール・マモン・ベールゼブブ・アスモデウスが各々の大罪の担当になっています。まあ、七福神ならぬ七悪魔とでも呼べばいいんでしょうかね。  切り刻まれた映画では主に貪欲を軸に描いているが、おそらく失われた7時間弱の残りのフィルムには他の大罪も入念に描かれていたのでしょうか。劇中では七罪のエピソードはダイジェストのように語られていくので、未消化の部分も数多い。カットにカットを重ねられ、意味が通りにくくなっているのである。それでも嫉妬・憤怒・怠惰・貪欲・暴食・色欲のエピソードには事欠かない。  まあ、七罪の第一である傲慢に関しては、シュトロハイム個人がもっとも傲慢であったであろうことは容易に察しがつくので、わざわざ傲慢ということにスポットライトを当てなくとも、製作者の個性がフィルム上に浮かび上がってきているようです。  主題である強欲に関しては登場人物各々にエピソードがインサートされている。初々しい新妻だったザス・ピッツが大金を持ってしまったことから金銭欲という強欲に取り付かれ、どんどん精神を冒されていく様子が上手く描かれています。主役であるギブソン・ゴーランドはデス・バレー(死の谷)にたどり着き、もはや生きて帰ることも叶わないという絶望的なシチュエーションに追い込まれても、なお黄金の輝きに取り付かれて離そうとしない。
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 マーカス役のジーン・ハーショルトが示す強欲も凄まじい。家庭には恵まれていたが、お金持ちではなかったザス・ピッツをあっさりとゴーランドに譲るほどのプレイボーイ的な軽い雰囲気を持っていた彼も、いざ彼女が宝くじであぶく銭とも言える大金を手にすると女々しく豹変し、嫉妬と後悔に駆られ、彼女のお金なのに、自分のモノだと言い出すほどの強欲で最低の人格に成り下がる。しまいにはかつての彼女とその夫に謀略を仕掛け、彼らを破滅に追い込む。しかも彼女の大金を自分のモノだと言い張る始末である。  彼の強欲振りは全編に示される。主役であるゴーランドの強欲よりも、妻役ザス・ピッツと妻のかつての恋人役であるハーショルトのそれのほうの印象がとても強い。何度もクロース・アップされるハーショルトの歪んだ、とても嫌な人間の顔、そしてザス・ピッツのさもしい、そして凄まじい黄金と小銭の魔力に取り付かれた様子を描いた一連の描写は生々しく、恐ろしい。  なかでも黄金の金貨を敷き詰めたベッドでしか安心を得られない様子は不気味で、いくつかある、この映画の中に出てくる映画史上最高のシーンのうちのひとつである。もっとも有名なデス・バレーでの死闘、麻酔を掛けて性欲を満たす変態的なゴーランドの映像とともに忘れられないシーンでした。
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 無声映画であるのに、音の有無など全く気にならずに、あっという間に過ぎていく2時間のあとに脳裏に浮かぶのは多くの強い印象を残した映像の数々です。重要な節目に必ず登場する主人公と小鳥とのやりとり。苦しい中で出会った小鳥との触れ合いで示した主人公の優しさとその後の残虐な行動とのギャップの大きさ。結婚式で幸福の象徴となるはずだった、つがいの小鳥。そして最後にデス・ヴァレーで解放された小鳥。  最初の小鳥は彼の優しさと残虐さを引き出した。二羽のつがいの小鳥は主人公と彼の妻となったザス・ピッツでは捉え方が全く違う。主人公は籠にいる二羽を彼と妻であるように捉え、幸福の象徴と考えた。一方、妻は二羽を飼っている籠を牢獄と捉え、単純な彼女の夫とは違う、むしろ不自由の象徴とさえ思っているようなショットが並ぶ。そのときに映し出される彼女の元恋人役のハーショルトが示す、夫への蔑みの目と彼女への同情を匂わせるような顔つきからは昔馴染みの男と女だけが共有できるある種の感覚を表している。  初めて出会う歯科医師の治療室での変態的なやりとりは女性にとっては気分を害するシーンであろう。エーテル麻酔で彼女を眠らせてから、自由に彼女をもてあそぶ歯科医というのはかなり変態的かつ犯罪的な映像である。しかも小道具に出てくるのが誰もが大嫌いな治療用のドリルなのである。あの機械音が聞こえてきそうな気味の悪いシーンでした。今の目で見ても観るのをためらうような映像なのですから、1920年代の熱心なキリスト教徒の多い地域ではさぞや顰蹙を浴びたであろう。
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 金銭欲の凄まじさを思い知らされる、目を背けたくなる映像も多い。夫の財布から小銭をくすめ、釣銭を誤魔化し、金貨を喜色満面に磨き続けるザス・ピッツは綺麗な顔がむしろ反対に気味悪く見える。黄金をジャラジャラとかき混ぜ、金貨が両腕に落ちてくる映像のインサートも人間の本質を抉るようでした。  芝居全体を見ていると、来るべきトーキーに対応できそうな人とそうでない人との差が結構出てきているように思えます。サイレントなのに、シュトロハイムのリアリズム志向から、台詞をきちんとしゃべらされた俳優には相当なストレスがかかったであろう。戸惑いが画面からも伝わってくるようだが、この演技指導のおかげで、現在の鑑賞にも堪える自然な演技を見られるのです。シュトロハイムの先見性の確かさを実感できます。  しかしこれ以外に、当時の状況から見て、いくらなんでもリアリズムに徹しようとしすぎるあまりにシュトロハイムは行き過ぎであることが明らかなことも多い。贅沢な食事シーンはもちろん本物の食材を使う、アパートの住人役の俳優たちには実際にその場所に住むように指示したりしている。いくら作り物でない真の演技を欲したにせよ、やはりシュトロハイムは異常であると言わざるをえない。
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 もちろんマイナス面ばかりではない。オールロケで9時間弱を撮りきったのもまた逸話であろう。このおかげで1920年代のオークランド駅やデス・ヴァレーなどの様子がふんだんに見ることができたのもシュトロハイムの貢献とも言える。オークランドの駅の様子は特に印象に残る。広大な駅には1920年代でありながらもすでに線路が複数線分が敷かれているのです。  21世紀の現在でも駅で上り下りの二本さえない、つまり一本しか線路のない駅が多数存在するのに、アメリカでは大都会でもない地域でもすでに複数の機関車が行き交い出来る環境が整っているのです。国力の充実というのはこういう目立たない部分からでも見ることが可能なのです。  大きい国だから出来るのだという声もあるでしょうが、実際に整備されている事実は見逃せない。そこはニューヨークでも、ロスアンジェルスでも、シカゴでもない、オークランドなのです。映画そのものには全く関係はないのですが、妙に印象に残るシーンでした。  自然現象の演出の迫力もまた凡庸ではない。迫力のある雨のシーンの演出というと有名なのはわが国が生んだ巨匠、黒澤明監督ですが、シュトロハイム監督の演出が生み出す迫力はただものではない。横殴りに吹き荒れる暴風雨の凄みはサイレントであるにもかかわらず、まるで音が聞こえてくるようでした。
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 結婚式の騒がしさも素晴らしいシーンのひとつでした。参列者たちが猛烈に飢えた豚か餓鬼のように食材を貪り喰う様子からは大恐慌前の株のバブルに浮かれていた頃のアメリカをうかがえる。この映画はご存知のように9時間弱のフィルムを切り刻まれ、まずは4時間半版、次いで天敵アーヴィング・サルバーグの指示と下手くそな編集者により2時間ものにされてしまいました。  しかし考えなければならないのはそれだけの時間まで達するほど撮影が出来ていたという事実を見逃せない。景気が良かった頃だからこそ、それだけの浪費とも思える製作体制でも会社が支えられたのであろう。翳りが出てきだした頃に目鼻の利くハリウッドの奸物たちは会社を売り飛ばし、いくつかのメジャーに集約され、ゴールドウィンとメイヤーとメトロは合併し、MGMとして生まれ変わり、シュトロハイムの天敵サルバーグがMGMの重役として会社にやってきた。  歴史的に見ると、20年代半ばに合併の動きが起こり、ハリウッドメジャーが集約されていたのは僥倖だったのかもしれない。もし各々が独自路線を歩み続けていたら、恐慌時に、メトロもゴールドウィンも、ドイツのUFAのように倒産するしかなかったかもしれません。少数精鋭になっていたからこそ生き残れたのかもしれません。また合併は合理化を意味するので、大金を浪費する映画人たちを景気が悪くなる前にリストラしていたのは会社経営から見れば成功ともいえます。  とかくファンの立場で見ると、素晴らしい映画が観たいあまりに経済性など全く省みないのが常ではありますが、芸術至上主義に奔ると、ユナイテッド・アーチスツの『天国の門』やUFAの『メトロポリス』のように、映画会社の浮沈にかかわってきます。  シュトロハイム監督やグリフィス監督の後退はトーキーという技術面の進歩ばかりが強調されるが、彼らが莫大な費用を掛けて作る映画を支えられなくなった経済状況そのもののほうが大きな原因であろう。フリッツ・ラング監督にしても、『メトロポリス』で製作会社UFAの経営を傾け、倒産の原因となったが、彼が自由に映画を撮れなくなったのも戦争や不況のせいであろう。さいわいラングは『M』『飾り窓の女』などで復活したように見えるが、いわゆる大作は任されてはいない。
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 映画に戻ります。観た者すべてにもっとも鮮烈な印象を残すのがデス・ヴァレーでの死闘であろう。摂氏50度を越える死の谷での撮影は困難を極め、カメラが猛暑のために使い物にならなくなってしまい、冷水で冷やしたタオルで包んで撮影するほどだったそうです。  見渡す限りの砂漠で、250キロ四方に水飲み場すらない状況でも、命よりも黄金に執念を燃やす二人の男の貪欲は尋常ではないが、身に余る大金は普通の人々でも異常な亡者に変えてしまうという恐ろしさを語りかける。映画の登場人物は黄金に魅入られたが、この映画の監督であるシュトロハイムは自分の映画に忠実であろうとしたために、つまり強欲なまでに完璧を求めたために、結果として大作にはなりはしたが、切り刻まれ、完全な形としては世に残っていない。またシュトロハイムの映画人生も転落し始め、最終的には役者としてしか生きていけなくなってしまう。  貪欲とは色々と深い意味でよく付けたタイトルです。普通の人でも何らかのきっかけがあれば、簡単に貪欲な獣に成り下がり、ついには命を落としてしまう。そのような状況に陥ってもなお、欲という悪魔に憑依されたものたちは毒を喰らい続けようとする。この映画は中途半端なサイコホラーなどでは相手にもならない狂気に満ち満ちている。  しかも、性質が悪いことに、こういう狂気に陥る者は世界中で増殖し続けている。しかも彼らはみな人間の顔かたちをしている。この映画に救いはない。小鳥の解放にしても、つがいだった筈の鳥なのに、デス・ヴァレーでのラストシーンでは一羽しか見当たらない。もう一羽はどこへ行ったのだろうか。 総合評価 100点