良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『天地創造』(1966)ダイジェスト的に語られる旧約聖書の世界観。スペクタクルなシーンも多い。

 欧米はもちろん、南米を含めた外国映画を観ていると、何気ない部分にもキリスト教文化が深く浸透していることに気づくことが多い。十字架、教会、12使徒の名前、慣用句、お祈りなどなど様々なシーンでキリスト教的な習慣が息づいているのが分かります。  このような習慣や彼らの血肉であるキリスト教を知識としてでも知っているか、そうではないのかで外国映画の理解度は違ってくるのではないか。  宗教映画というジャンルを無意識のうちに避けてきている映画ファンも多いでしょうが、たとえ代表的な作品群だけでも見ておきたい。分厚い聖書を読むよりは分かりやすいのでお試しください。
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 大雑把にみていくと新約聖書旧約聖書がありますが、『天地創造』『カインとアべル』『十戒』『ジーザス・クライスト・スーパー・スター』『最後の誘惑』『パッション』など有名でレンタルで借りやすいものばかりなので、好き嫌いはやめて、一度くらいはぜひ見ましょう。  なかでもまずは見たほうが良いかなあと思えるのがジョン・ヒューストン監督の『天地創造』です。本人もノア役で出演しているので、彼の演技にも注目したい。  映画の構成は天地創造の7日間、アダムとイブ、カインとアべル、ノアの箱舟バベルの塔、ソドムとゴモラアブラハムとイサクという有名な七つのエピソードをザックリと羅列していく。
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 思わず「へぇー!」と唸るシーンがたくさん用意されています。日本人にとっては奇異に映るのは契約という概念の厳しさでしょう。曖昧に許すという感覚は全くありません。物事に白黒をつける分かり易い神です。第一の天地創造のエピソードでは一週間の概念の意味を知るでしょう。  第二のエピソードにはアダムとイブが登場し、何が原因で楽園を追われたかが明らかになる。このときに蛇が出てきますが、樹の中で蠢くのでかなり見づらい。1960年代の映画で全裸の男女を冒頭に持ってくる、しかもその映画が宗教映画だというのは当時はかなりインパクトが強く、保守的な立場の人たちからみたら、それこそ神への冒涜という批判も出ていたのではないでしょうか。  数年前に『ダヴィンチ・コード』が公開された時にカソリック系の国で非難轟々だったと記憶していますが、あの頃は何もなかったのでしょうか。興味があるところです。
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 第三のエピソードにはアダムとイブの子供であるカインとアべルの諍いが原因で起こる、人類初の殺人が描かれる。欲深い人間と淡白な人間の生き様と神がどちらの人間を好むかが描かれる。この映画は基本的に二元論的な聖書ダイジェストとなっているので深くまで掘り下げていかない。  スペクタクルのないエピソードの部分では異教徒の我々のような観客には物足りなくなってくるでしょうから、家族の葛藤や兄弟の立場について、より興味を持たれた方には映画『カインとアペル』をお勧めします。たしかこれもメチャクチャ長い映画だったような気がします。
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 第4のエピソードで、ついにこの作品の監督でもあるジョン・ヒューストン自身が人類や動物たちの救世主であるノアの役を務める箱舟のエピソードが語られる。この映画の全エピソード中、もっとも予算が使われているのが理解できる。この時の神とノアの約束(もう人類を滅ぼさないという約束。)の印が虹であることが告げられるのは興味深い。  人類を二度と滅ぼさない証こそが大空に架かる虹なのです。最近、というか10年以上、まったく虹を見なくなりましたが、神様は約束を忘れてしまったのでしょうか。虹を見たかい?って感じです。むかしCCRが『雨を見たかい』って歌っていたのをふいに思い出しました。
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 このエピソードの見所は大きな箱舟のロケ・セットや番(つがい)で収容されてくる動物たちが一列に並んで入り口を目指すシーンでの特撮などでしょう。オプティカル的な効果を使っているのでしょうが、50年位前の作品にしたら、かなり予算を使い、丁寧に作られているのが分かります。  神様が大空の向こうからノアに語りかけるシーンは最初に見たのが小2くらいだったので、見た次の日に「もしかして、空からなんか言われたら、どうしようか?」とビビリながら空を見たのを覚えています。
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 つぎに登場するのはニムロデ王のお話、つまりバベルの塔の伝説となります。傲慢な人間たちに鉄槌を下す厳しいエピソードであります。もっと掘り下げていけば、ずっと深みが出てくると思うのですが、ここも予算の関係からか、かなりダイジェスト的に進んでいきます。  名前だけは子どもでも知っているバベルですが、実際にどういう物語だったのかを知ったのは横山光輝の『バビル2世』のコミックスで語られるバベルの塔の逸話が最初でした。
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 後半はさらにダークな色彩が強くなり、ソドムとゴモラのエピソードが続きます。アブラハムとサラもすでに登場していて、ロトの住んでいた街を滅ぼす天使いの役で『アラビアのロレンス』のピーター・オトゥールが出演します。かなり不気味で不吉な役柄でした。真っ白だったロレンスとは正反対の黒装束なので印象的でした。  天使によって救われる途中で、ロトの妻が天使の注意にもかかわらず、街の方へ振り返ってしまい、石に成り果ててしまうシーンは最初に見た小学生時代からずっと強く記憶に残っています。このへんのエピソードは『古事記』に出てくるイザナギイザナミの黄泉の国のお話にも通じる要素があるように思えました。  「善人が10人でもいたら、街はどうなりましょう?」という問い掛けに対し、「その者のために、街を救おう。」という下りはノアの箱舟以来の選民のお話であり、厳しいエピソードであります。  逃げ出す途中に二つの街が消滅しようとするとき、まるで原爆が炸裂するようなスパークが映像として出てきたのはまるでSF映画のようでした。
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 最後のアブラハムとイサクの契約にまつわるエピソードも地味ながら、かなり強烈な意志の強さと信仰が峻烈で、とても厳しいものであることを覚悟せねばならないと気づかされる。  神との契約を守るためならば、ようやく授かった我が子でも生け贄として差し出せるかという究極の選択を迫られる。なんと厳しい神様だろうか。砂漠の神はイスラムにせよ、キリスト教にせよ厳しくあるべきだったのでしょうか。  温暖な気候にあっては民衆を導くのは難しく、暮らしにくい国々の宗教のほうが白黒をはっきりつけるので分かりやすいのだろうか。この映画には深みはないかもしれないし、大味に映るかもしれない。これら旧約聖書のエピソードについて、ひとつひとつをじっくりと考えていくのは我々観客の仕事なのです。  キリスト教が解らない、イスラム教が解らない、仏教が解らない、神道が解らないと言う前にまずはそれぞれの代表的な書物を読んでみましょう。読むのが苦手ならば、映画で見ましょう。信仰を持つ人々の物の見方を知ることが観客としての新たな視点を手に入れることになります。
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 預言者アブラハムはイサクとイシュマエルの父親になるわけで、その後の宗教対立の大元でもある。本妻と愛妾が財産や身分を争うのは昔からであり、神世の時代からすでに原型があり、しかもそれが聖書で扱われているのが興味深い。  男を誘惑し、共に楽園を追われるイブに課された罰が生理だというのも現代の感覚で見ると奇妙だが、大昔は大真面目に語られたのであろう。最初の殺人もアダムとイブの子供であるカインとアベルの間で起こる。  生身の人間そのままであり、神が絶対的な高みから人類をコントロールしているのに比べ、登場人物が人間くさく、煩悩に溢れている様は親近感が湧くのではないか。ニムロデ王にしても、より高みを目指すのは向上心であろうし、問題だったのは彼の傲慢さであろう。
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 反対に天使を助けるロトは彼の仕事の邪魔をしない代わりに処女である自分の二人の娘を信仰のために投げ出そうとする。アブラハムも約束の子であるイサクを神に生贄として差し出そうとする。神が信仰を試すというのは理解できるが、あまりにも苛烈であり、現代の考えにはそぐわない。  原典の解釈が現代ではどうなっているのかは知りませんが、変えていくものは変えていかないと運営が難しくなってくるのではないでしょうか。 総合評価 70点