『Mishima:A Life in Four Chapters』(1985)封印作品だが…。
わが国では未公開だった今作品でしたが、海外での公開年度が1985年ということもあり、邦画ファンにとって今となっては鬼籍に入った方やテレビで見かけなくなった懐かしい人々も多いので、まずは出演していた俳優陣の豪華さから見ていきたい。
緒形拳(三島由紀夫)、塩野谷正幸(森田必勝)、三上博史(楯の会)、織本順吉(長官)、加藤治子(女優)、坂東八十助(『金閣寺』溝口)、佐藤浩市(柏木)、萬田久子(遊女)、沢田研二(『鏡子の家』収)、勝野洋(『奔馬』本多中尉)、永島敏行(『奔馬』勲)、横尾忠則(『鏡子の家』夏雄)、左幸子(収の母)、李礼仙(清美) らが参加し、本編からは外れたものの笠智衆も出演していました。
これだけのメンバーが揃っている大作映画で、しかも日本を代表する作家である三島由紀夫の生涯を描いた映画がなぜか本国日本ではいまだに公式に一度も上映されてはいない。
この映画のタイトルは『Mishima:A Life in Four Chapters』。一風変わった題名になるが、内容は三島由紀夫の生涯を描いているのが今作品である。製作を引き受けたのがフランシス・フォード・コッポラとジョージ・ルーカス、監督がポール・シュレイダーであることからも分かるように、これはアメリカ映画であり、海外では普通に上映されました。
しかし三島の遺族とのトラブルがあったために、わが国では一切劇場公開されていないし、ビデオ時代はもちろんDVDにフォーマットが変遷しても、いまだに国内ではソフト化されてもいない。
ただソフト化されていなくても、CSなどで放送される作品も数多いし、つい先日も三島や丸山明宏が出演していた『黒蜥蜴』や『からっ風野郎』が流され、ファンを喜ばせましたが、『MISHIMA』はまだ封印が解かれていません。
ビデオ・レンタルの時代には緒形拳が楠正成で有名な“七生報国”の鉢巻を締めた勇ましい姿が強烈な印象を残したジャケットの海外版VHSテープを置いていたお店がたまにあり、90年代初頭までは運が良ければ見ることが可能な作品でした。
しかし現在では置いていたお店が潰れたり、レンタルのスタンダードがDVDに移行したため、なかなか容易に楽しめる環境にはない。海外版であれば、PAL方式のDVDがヤフオクでたまに出品されていますが、規格が違うのでPCでの鑑賞で我慢するしかない。
値段は5000円前後の物が多く、そう高価ではないのですが、いかんせんPAL方式という異なる規格のために大画面での鑑賞が難しいのは残念です。
また今でもレンタルで消耗したVHSテープが馬鹿高い値段で取り引きされています。しかし、この映画がいつまでも封印されてしまっているのは非常にもったいない。なぜならば、さきほども書きましたとおり、出演者たちの顔触れが豪華で見応えが十分あるからです。
俳優陣も気合が入っていて、重厚な作品に仕上がっているので余計に口惜しい。特に印象に残ったのは沢田研二と坂東八十助でした。
四部に分かれた物語パートは第一章では『金閣寺』を佐藤浩市と坂東八十助、萬田久子らが共演し、第二章では『鏡子の家』を沢田研二、李礼仙、平田満男が出演している。
第三章では『奔馬』を永島敏行と勝野洋が共演し、それぞれの代表作の橋渡しとなる回顧編と第四章となる自決の日では独白を担当している三島役の緒形拳が主演を務め、若き日の三上博史らも出演している。映画の導入部は1970年11月25日の三島の自宅で始まります。
アポロ像越しの三島(緒形拳)を写した有名な写真を撮っているのは篠山紀信役の俳優であろうか。このように本人宅をロケーションに使用する許可を得るほどの協力体制を築いていた。
にもかかわらず、三島がゲイバーへ出入りするシーンや自宅前でホモ・セクシャルを匂わせる会話をするシーンをカットするようにという遺族の要請を断ったために、本国日本での公開及び販売が一切出来なくなってしまいました。
独白や11月25日のシーンはドキュメンタリー・タッチで市谷駐屯地に至るまでを時系列を分解し語っていくが、彼の作品群の映像化にさいしては舞台芸術のようなセットを組んでいて、それらはかなり個性的かつ前衛的で、鈴木清順の映画を見るようで、とても楽しい。
第一章 BEAUTY
『金閣寺』…佐藤浩市、坂東八十助
「幼少時代」…大谷直子、加藤治子
第二章 ART
『鏡子の家』…沢田研二、李礼仙、左幸子
「文壇へのデビューと評価」…緒形拳、北詰友樹
第三章 ACTION
『奔馬』…永島敏行、勝野洋
「楯の会創立と『憂国』などの映画製作」…緒形拳、三上博史
第四章 HARMONY OF PEN AND SWORD
『豊饒の海』…楯の会での自衛隊体験入隊と市谷駐屯地での三島最期の日
さて、三島を語るときにどうしても避けられないのがホモ・セクシャルの問題であり、このことが原因で遺族の許可が下りずに、わが国では上映や販売が出来なくなっているのは先ほども書いた通りです。
この作品を見ているとあちらこちらに彼の趣味を匂わす描写や場面がある。ひ弱な自分への嫌悪感と強靭な肉体への憧れがそういう傾向に繋がっていったのだろうか。
かつて兵役を忌避したひ弱な自分を振り払うように、四十歳を越えてから、肉体改造をして逞しい日本男児として死を迎えようとした彼の美意識とはどういうものだったのだろうか。彼は肉体より先に言葉が成長したのが自分なのだと語っていたが、最終的には芸術(文学)と行動(肉体改造と命の捨て方)の一致を目指した結果があの市谷での最期だったのだろうか。
美しき死への憧れはあったようで、『金閣寺』では戦争の爆撃で焼かれることを願っていたがかなわず、ついには絶対的な美を誇る金閣寺に火をかけて、その呪縛から解き放たれようともがいた溝口を描いた。
『鏡子の家』では完全無欠な美青年である収を刃物であえて傷つけて、今その瞬間の美しさを永遠なものにしようとする清美の破滅的な衝動を描いていました。
『奔馬』では燃え盛る青年期特有の穢れなき精神を宿す勲の苦悩と真心の発露とそれが故の悲劇的な死に様を描き出しました。
また自ら監督・出演をした『憂国』ではまるで京都の禅寺のような石庭を舞台に、戦後すぐであれば、おそらく前時代的あるいは時代錯誤な自殺方法として思われていたであろう切腹を美しい儀式として描き出しました。
肉体改造や死の美意識はひ弱な自分の内面を包み隠し、外部へエネルギーを放散させるための方便だったのではないだろうか。おばあちゃんに育てられ、その後も周りにいるのは母親だったりで、女々しく成長した自分を嫌悪しつつも、兵役を忌避して生き残ろうとするなどの独白があり、そうした自分を恥に思う気持ちが強かったために、遅れて“戦死”しようとしたのだろうか。
今でこそ、この『憂国』はDVDで鑑賞出来ますが、これも数年前までは封印されていました。今回の製作者の意図としては三島を描くに当たり、心情を分かり易く表現するために使ったのが映画という媒体なのでしょう。
が、出来上がった作品を評して「表層的で薄っぺらだ!」と怒る向きもあるかもしれません。ただし映画という芸術形態で必要なのは分かり易さなのです。
一番伝えたい感情を表現しようとするのが映画です。人間はさまざまな感情があり、目に映っている姿がすべてではない。一つの感情へ到達するまでの細かい機微を描くのが文学という芸術形態なのです。映画には映画の良さがあり、文学には文学の良さがある。どちらも楽しめるのが幅の広い大人の感性でしょう。
たとえゲイバーや自宅前でのやりとりを含むシーンをカットしたところで、同性愛を想像させる描写が頻繁に出てくるので、仮にこの部分がお蔵入りしていたとしても、全体を通して見ていけば、まったく無意味に思える。
また現在では同性愛者に対しても、昔ほどの偏見もないでしょうし、権利者や遺族には出来るだけ早く、この映画の封印を解いていただきたい。なぜならば、これを見てホモ・セクシャルを気持ち悪く言うような輩は数少ないでしょうし、映画の出来はそのような小さい尺度では測りきれない圧倒的な美しさを持っている。
総合評価 85点