『ブラック・スワン』(2011)ナタリー・ポートマンの鬼気迫る演技。これに賭けた思いが伝わります!
ついにアカデミー主演女優賞を取ったナタリー・ポートマンがリュック・ベッソンの『レオン』(1994)にワカメちゃんやまるちゃんのようなヘア・スタイルでスクリーン・デビューしたのは彼女が11歳の時でした。
その後、『あなたのために』『フリー・ゾーン』『マイ・ブルーベリー・ナイツ』やスター・ウォーズ新3部作に出演し、着実にキャリアを重ね、人気女優としての地位を確立していきました。子役から始まって、人気女優になるというパターンはジョディ・フォスターに似ている。
そんな彼女にとって、もっとも欲しかったのは演技派としての歴史に残るような代表作品だったと思います。その意味では今回の『ブラック・スワン』への出演は彼女のキャリアにとっても重要な意味を持つのではないでしょうか。
彼女の取り組み方も徹底していて、一年以上の期間をかけて、バレエの基礎から固めていきました。最初の6ヶ月は1日2時間で基礎をみっちり固め、次の6ヶ月は1日5時間、そして最後の3カ月間で毎日8時間以上のトレーニングに取り組んでいたからこその演技だったのでしょう。
玄人筋から見れば、動きのあちこちに綻びがあると見抜かれるのでしょうが、素人が見る分には首筋の筋肉や体の線、頭蓋骨の輪郭はストイックに体重管理して、それに加えた日々の節制に励んでいる者のみしか得られないようなフィジカルの状態に見える。
作品を通して見ていくと、彼女の出番のうち、アパートでの母親(バーバラ・ハーシー。彼女はどうも見覚えがあるなあと思っていたら、『ライト・スタッフ』に出ていました。)との絡みや地下鉄などの移動シーン以外の8割強はひたすらバレエの踊りに費やされる。
顔が映らないものも含めた全部のシーンで彼女が踊っていたかは定かではありませんが、バスト・アップで撮られた多くのシーンで見られる彼女のフィジカル状態には説得力があります。
ストーリーの構造は『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』と並ぶチャイコフスキーの三大バレエ劇のひとつ『白鳥の湖』のストーリー展開とバレエ団の人間ドラマをリンクさせていて、観ている者を楽しませてくれる。
『白鳥の湖』といえば、誰もが知るクラシックの名曲であり、そのメロディは耳に残っているでしょう。この映画では色々なアレンジのこの曲が使用されている。同じ曲なのですが、アレンジによりかなり違った印象を与えてくれます。とりわけクライマックスの劇場シーンで掛かるときの迫力あるサウンドにはうねりのような凄みがあり、悲劇的な印象がさらに強くなる。
バレエ団の練習シーンではピアノはともかくとして、本物のバレエ用の楽団がレッスンに合わせて、生で演奏をしていたのには唸らされました。
プリマを演じるナタリーの繊細さは彼女の首筋や筋肉によっても表現される。穢れなき白鳥(オディット)は問題なく表現出来るナタリーは蠢くような欲望を全面に押し出す黒鳥(オディール)をどうしても演じられないという設定になっています。
自分の殻を破るために彼女は自傷、アルコール、自慰、ドラッグ、行きずりのセックスに染まっていき、彼女を自分の好みの“我が姫君”にしようとする演出家(ヴァンサン・カッセル)により、セクハラを強要されたり、彼女の後釜を執拗に狙い続けるミラ・クニスとのレズビアンのクンニ・シーンまで出てくる。上記のような経験を重ねるうち、少しずつ精神に異常を来たしてくる。
劇場内の観客のほとんど95パーセント以上は女性ばかりで、男の客はぼくを含めて5人以下というアウェイでしたので、ちょっと困りながらの鑑賞となりました。
主役をやり遂げることにかかる重圧に押しつぶされていく彼女の人格は徐々に狂気に蝕まれ、幻覚や幻聴に悩まされ、精神と肉体のバランスは破綻していく。
リリーにクンニされるシーンはそれまでのナタリーを知る観客にはかなり衝撃的だったでしょう。ぼくも小さいときから見てきた彼女の大胆なセックス描写には驚かされました。
度々出てくる自傷シーンは苦悩を表現するには直接的過ぎますが、痛みを表すには分かりやすかったのでしょう。自傷を防ぐため、必要以上に爪を切るので自分の身まで切り取ってしまうシーンが何度も繰り返される。
自傷行為はどんどんエスカレートしていき、背中から棘のような毛が生えてくるまでになる。まあ、これは幻覚でしょうが、こういう描写は『ザ・フライ』を思い出させてくれる。
そもそもストイックなバレエ行者のような苦行の連続はマゾヒスティックですらある。新品シューズをあえて馴染むように傷をつけたり、足指にバンテージを巻く様子は見ているだけでも痛そうでした。クライマックスの舞踊の準備のときにナタリーの足指はパンパンに腫れているし、指が癒着して引っ付いてしまっている。血だらけの足指や手の指が苦しみを物語る。
ナタリーの前の女王だったウィノナ・ライダーは引退に追い込まれ、自暴自棄になり、自ら乗用車に突っ込み、足首もヒザもボルトが入り、数十針も縫合するほどの手術を受け、完全にバレエから足を洗わねばならないような身体になってしまう。
彼女は数年後の来るべき未来のナタリーの姿であり、ミラ・クニスはかつての自分でもある。ウィノナにとってのナタリーはミラなのでしょう。狙われる者より、狙う者の方が強い。
バレエにしろ、ミュージカルにしろ、お芝居にしろショー・ビジネスの世界では必ず代役が準備されていて、観客に迷惑を掛けないようにしているが、これが主役の人間にとっては大きなプレッシャーのひとつになるようです。
何度も繰り返される小道具に鏡やガラスがあります。中盤からは鏡に映るナタリーが動き出し、どちらが実体なのかの境界線がぼやけてくる。映りこんでいる彼女は攻撃的な顔だったり、邪悪な表情を浮かべている。彼女の本質がそういう負の感情ばかりなのか、それとも負の感情への恐れが作り出した幻なのか。
鏡が映し出しているのが本質なのか、それとも理性・感情・肉体・精神がどんどん分裂していく過程を映像で表現したかったのだろうか。映画前半ではナタリーは鏡を見ているが、後半では鏡に見られているように思える。重圧と
焦りが彼女を押し潰し、心の底にあった狂気が出てくることにより、精神が崩壊してはじめて魅力的な黒鳥となる。観客を魅了するのは演じる者が善悪を飛び越えて、己のすべてをさらけ出す瞬間なのかもしれません。
また地下鉄シーンが『π』に似ているなあと思っていたら、実は監督が同じ人でダーレン・アロノフスキーでした。ナタリーが狂気の底に墜ちていき、それでも重圧と戦おうとして舞台に臨むも数々の妨害により主役の座から滑り落ちそうになった最後の幕間の休憩でついに彼女はライバルを刺し殺してしまい、とうとう自分の殻を破り、黒鳥たる資格を得る。
ドラッグで身を持ち崩し、クライマックスとなる舞台初日に復活し、ラスト・シーンに至るまでは怒涛のスピード感でフィルムは流れていく。結果として訪れるバレエの最終場面と盛大なカーテン・コールは様々な意味を持つように思えてくる。
彼女の死?はむしろ重圧から解放された彼女への祝福ではないだろうか。黒鳥を演じる彼女が真っ黒な羽根に包まれて、まるで悪魔の化身のような姿になったのが比喩的表現だったように、彼女の腹に深々と刺さった鋭いガラス片もまた、最後に彼女が究極の自傷である自殺、その覚悟を決めた命懸けの舞だったのでしょう。
最後に神々しく、眩しい光に包まれていくナタリーはとても美しい。もともと持っている善の美と自分を痛めつけた末に到達した悪を超越した彼岸にある美の二つの振り幅の間でバランスを取るのが真の美なのだろうか。見れば見るほど、新たな発見が得られそうな映画でした。好き好きはあるでしょうが、見る価値はあります。
総合評価 86点