良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『アギーレ・神の怒り』(1972)ヘルツォーク初期の代表作。主演はもちろん相棒キンスキー。

 ジャーマン・ニュー・シネマという大きな波を世界中の映画ファンに知らしめた、記念すべきというよりも見ておくべき作品のひとつがヴェルナー・ヘルツォーク監督初期の代表作となった『アギーレ・神の怒り』です。  この映画でいう“神”というのはイエス・キリストでもマホメッドでもなく、征服者として南米奥地にあると信じられていた黄金郷エルドラドへ向かって破滅していった、スペイン帝国からの侵略者ピサロ率いる精鋭部隊の副将アギーレのことを指しています。
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 破壊神の扱いなので、日本神話でいえば、さしずめスサノオノミコトのようなイメージでしょうか。当然、このアギーレを演じたのはヘルツォーク映画には不可欠な怪優、クラウス・キンスキーです。愛娘ナスターシャ・キンスキーもアギーレの娘役で出演しています。当時から透き通るような美少女だったんですね。ノン・クレジットなのですが、すぐに彼女と分かります。  この映画が描いたのは南米奥地の厳しい大自然に放り込まれ、まったく補給を受けられないアマゾン川流域で、現地インディオとの激しい殲滅戦を繰り返しつつ、スペイン王朝に反旗を翻し、エルドラドを目指すという破天荒な道中を描いています。
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 過酷な状況下でも怯まない名誉欲と権力欲を求め続けるコンキスタドール(征服者魂とでも言えば良いのだろう。)の業の深さと絶望的な状況が増すにつれて、狂気と妄執に取りつかれていく過程を見せつけられます。オープニングの霧がかかったファースト・シーンを見て思い出したのは黒澤明監督の『蜘蛛巣城』でした。  アマゾン川流域の反抗的なインディオ(当たり前!)からのゲリラ攻撃の厳しさや川下りしながら、あてもなく、あるかどうかも定かではない黄金郷を目指して、小隊と共にジャングルをさ迷い続けるという展開から思い出すのはフランシス・フォード・コッポラ監督の狂気の大作『地獄の黙示録』でしょうか。
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 あの映画ではワーグナーの『ワルキューレの騎行』やドアーズの『ジ・エンド』が代表するような血生臭い音楽がイメージを増幅させる映画的な表現を用いて、派手な狂気、言い換えれば、ハリウッド映画的な狂気(締め切りや予算に追われるという意味でも…)を目一杯描きました。  でも本当の狂気とはそんなに派手だろうか?その答えがここにはあります。クラウス・キンスキーがこの映画で体現する身体全体から湧き出るような静かなる狂気こそが妄執に憑依された人間の狂気であろう。
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 またポポル・ヴーがつけた静かで不気味な音楽の数々が本当の狂気とは何かを考えさせる。川下りの道中で、絶望的な状況に陥っていく中での原始的な笛音が耳の奥に残ったまま、なかなか離れない。  キンスキーが己の愛娘ナスターシャをも含めた部隊の人命を顧みることなく、ひたすらに前進を続けた先に見たのは虚無な無間地獄だったのだろうか。彼が辿り着いたエルドラドとは何だったのだろうか。
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 無策で傲慢な侵攻の後に見た彼の帝国とは皆が死に絶えた、沈みかけの小さな筏の上だけでした。彼の周りに集まってきたのは言うことを聞かない小さな猿の大群のみというのがなんとも哀愁が漂う。  絶望的な行軍は内輪揉めとインディオからのゲリラ攻撃が頻発し、大半の兵隊が壊滅し、残った者も伝染病にかかって死に絶えていく。隊長の愛人ヘレナ・ロホは彼が失脚したあとは自らの運命を悟り、ジャングルでは場違いとも思える煌びやかな正装を纏い、たった独りで威厳のみを伴い、食人族が屯する深い森へ消えていく。
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 クラウス・キンスキーに庇護されていたナスターシャ・キンスキーもまた無言で気高く絶望的な運命を受け入れていく。欲望に我を忘れて大局を見失い、裏切りや逃亡の果てに惨めに自滅していく男たちを見下すように、女たちは粛々と死を受け入れている。  この映画で興味深いのは女性や現地侵略の描き方で、スペイン軍が現地で略奪するシーンや女性を犯していくシーンは敵味方関係なく、すべて描かれていません。実際には強姦や理由なき虐殺があったのは想像に難くないが、征服者たちがインディオという異教徒の敵を無残に殺すシーンはありません。
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 描きたいのはそういった見せ物描写ではなかったのでしょう。それでもグロテスクなシーンはいくつかあり、裏切りの算段をする兵の首をはねると、しばらく胴体から切り離された首がしゃべるというカットがあります。  先進国側であるスペイン軍内部のドロドロした人間関係や暗殺は次から次に発生し、皆が目を離した隙に役立たずで大飯だけを食らう国王の血筋の者が始末されていたり、自分の上にいた隊長をキンスキーは下克上で殺害していく。平時であれば狂気の沙汰であはあるが、異常な環境化に置かれると剥き出しの欲望が顔を出すということなのでしょうか。
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 そもそもピサロ隊がアンデス高原の険路や隘路を昇り降りしながら目的地エルドラドを目指すオープニングの映像がとても薄気味悪く、一言も口を聞かずにただ黙々と歩き続ける一行が地獄のお遍路さんのように見える。構図もアンバランスで、画面真ん中の頂点から人々が下に向かって、意思すらないように坂を歩いていく様子と坂の下から昇ってくる様子がひとつの画面上に配置される。  普通、急勾配のアップ・ダウンの激しい山肌を行軍するモブ・シーンを描くときは一列縦隊の長い先頭から最後尾までを横から引き画で撮って、その軍隊の規模の大きさを見せるのでしょうが、ヘルツォークは縦構図で見せていく。非凡な構図を淡々と見せるこのオープニングはこれから始まる映画が尋常な感覚では見ていられないことを暗示するように見えます。
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 ようやく下っていった先には激しく、来る者を拒むアマゾン川が濁流となっている。この水の描写がとても厳しく、強く印象に残っています。筏で激流を下っていくシーンは実写ならではの緊迫感が漂い、乗り手が本気で恐れているのが分かります。  ここまでする必要があったのだろうか。クラウス・キンスキーの狂気だけではなく、撮影していたヴェルナー・ヘルツォーク監督の狂気とがアマゾンの厳しさと共鳴した結果として生まれたのがこの『アギーレ・神の怒り』なのではないか。実際、撮影の厳しさからか気に入らなかったかは定かではありませんが、引き上げようとしたキンスキーを銃で脅して引き留めるというエピソードもあったそうです。
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 十年後に彼らは再び、アマゾン川に集まり、もう一本の狂気の映画である『フィツカラルド』を完成させる。ちなみにこの映画のラスト付近でも西洋船がとてつもなく高い樹上にまるで縛り首にあったように、もしくはこの船こそが天国に導いてくれるインカの船のように放置されている。  このカットのみを見た人ならば「なんだこりゃ?」となり、思わず笑ってしまうのでしょうが、最初から見続けた人には狂気の果てにあるこのカットを笑うという感情は起こらないかもしれない。 総合評価 88点
アギーレ/神の怒り(紙ジャケット仕様)
ディスク・ユニオン
2006-12-22
ポポル・ヴー

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