『どん底』(1957)社会の底辺で暮らす人々は虚無的で自堕落に落ち込み、朽ちて行く。
『どん底』はゴーリキーの有名な戯曲ですが、ぼくはなぜかこの原作ではなく、ジャン・ルノアールが手掛けた映画を思い出します。
トボトボと道を歩く敗残者たちへの温かさと愛情がフィルムを通して伝わってくる。当然ロシアでも映画化されています。そして、ロシア文学に傾倒していた黒澤明監督もまたドストエフスキーの『白痴』に続き、ゴーリキー作品を換骨奪胎して日本的に翻案した『どん底』を生み出しました。
四時間に及ぶ超大作だった『白痴』は松竹によって無残に切り刻まれましたが、今回はホーム・グラウンドである東宝での製作です。『蜘蛛ノ巣城』も含め、自身が影響を受けたであろう西洋文学を普遍的な物語として映画化しようとする試みは成功することもあるが、機能せずに失敗することもある。今回はどちらでしょうか。
物語では江戸時代、貧乏集落に蠢く人々が希望が何一つない極貧生活の中で悲惨な暮らしを営なむ様をカメラが冷静に、シニカルに、そして時折あたたかく見守っているように描き出す。
落語の世界では江戸時代の暮らしを人情味たっぷりに描いていますが、実際は身分制度が重くのし掛かり、個人の才覚が発揮できるような世の中ではなく、階級社会のしがらみのなかで生まれては死んでいく時代が250年近くも続いていました。
この映画が描くのはそうした悲惨な人生模様です。悲惨な中にも笑いがあり、ごくわずかの笑いだけで気を紛らして生きていたのでしょう。演出では3台のカメラを一斉に回すマルチ・カメラ方式で撮影されています。
舞台が狭い長屋という室内劇であり、どうしても単調になってしまうのを防ぐために採用されたのがマルチ・カメラ方式だったのでしょう。長屋セットは壁や障子が撮影に合わせて取り外せるようになっていたそうで、撮影中にスーッと部屋に穴が開き、カメラが覗き込んできたりしたとのことです。柱や戸板の配置も工夫されていて、単調さを避けるために斜めに立てかけたりして画面構成にアクセントを付けています。
もちろん無駄を省くためにリハーサルを繰り返し、芝居をしっかりと固めた後に撮影に挑んでいったので、最終的には一か月という短期間でクランク・アップしています。役者とスタッフの集中力に驚かされます。
そういった努力の甲斐があって、豊かな表情やアングルに満ちた佳作に仕上がったのではないか。俳優たちの自然な表情やちょっとした仕草を捕えるには優れている方法ではありますが、カメラの台数が多いということは機材が増え、それを動かすための人件費が増大していきます。
今回は狭い空間での芝居のみで構成された作品でしたので、マルチ方式の良さが上手く活かされたのでしょうが、スケールの大きい作品を下手に撮ってしまうと莫大な経費も掛かってしまいます。
監督の手腕次第では最悪な結果も生み出しかねない諸刃の剣なのかもしれません。出来上がり、つまり絵コンテが頭の中でしっかり出来ているような人しか使えないスタイルでしょう。ただし個人的には大好きな女優さんである香川京子をもう少し綺麗に撮って欲しいなあというのがあります。
溝口監督は女を描くのが得意な監督だったので余計にそう思ってしまいます。まあ反対に溝口監督はモブ・シーンが苦手だったので一概にどっちがいいとは言えません。
カメラマンが増えるだけではなく、照明担当も増えるでしょうし、単純にスタジオの電力使用料が跳ね上がっていきます。また当然ですが、フィルムの使用量が膨大になり、世に出ないボツの分も増えてきます。
音楽の使い方も素晴らしく、序盤に登場する鐘の音、映画のクライマックスともいえる馬鹿囃子(なんだかミュージカルを見るようです。時代劇のどの作品だったかでも見たなと思い出してみると、それは志村喬が良い声を披露していた『鴛鴦歌合戦』でした。)、そしてラストに出てくる、背筋が凍るような能管の音。
こういった贅沢な撮影やアイデアの実験が許されたのはまだ映画最盛期だった頃の名残でしょうし、『赤ひげ』以降はさすがの黒澤明監督といえども、徐々に映画製作が難しくなっていき、試行錯誤を繰り返しています。
一応この作品は時代劇ではありますが、かつて『七人の侍』『椿三十郎』で観客が盛り上がったような派手な男祭りの娯楽作品ではなく、地味で黴臭い佳作です。
スケールも小さく、ほぼ汚い貧乏長屋の内部で物語が進行する。主役は三船敏郎、主演女優には山田五十鈴を起用し、一癖も二癖もある俳優たちがしっかりと物語を支えて、このこじんまりした映画を緊張感ある一本として成立させています。
舞台演劇を見ているような感覚です。黒澤座公演といった趣があります。中村鴈治郎、山田五十鈴、香川京子、上田吉二郎、三船敏郎、東野英治郎、三好栄子、根岸明美、清川虹子、三井弘次、藤原釜足、千秋実 殿様、田中春男、左卜全、藤木悠、渡辺篤、そして藤田山。映画ではかなり強い印象を残した藤田山ですが、撮影中は飲み込みが悪く、かなり苦労したそうです。
あ~ こーん こーん こんちきしょ!
こん こんちきしょ こんちきしょ
地獄の沙汰も金次第 仏の慈悲も金次第
おや、こっちはお螻蛄だ
スッテンテン
小判の雨でも降ればよい
テンツクツクツク テレツクツ
興味深いのは黒澤映画の主役である三船敏郎があまり目立たず、数年経っても印象に残っているのは山田五十鈴であり、聖者然として人畜無害にとぼけているが、どこかずる賢そうな左卜全であり、並み居る名優を押しのけ、最後のセリフを任された三井弘次です。
悲惨な暮らしの中でも生まれる馬鹿囃子のアナーキーなまでの盛り上がりは見た者しか頷いてはくれないでしょうから、DVDをTSUTAYAで借りて、見てほしい。三本目で迷ってしまったときにどうぞ。
観終わっても、けっして爽快な気分にはなりませんし、動きの少ない室内劇に退屈してしまうかもしれません。ただし代わり映えのない単調さこそが彼らのどこへも発散できない怒りや諦めを表したリズムだったのかもしれません。
総合評価 78点