『透明人間』(1992)映画職人ジョン・カーペンターがまとめ上げたコメディ風SF?
監督が1992年のジョン・カーペンター、チェビー・チェイスが主役の透明人間、ダリル・ハンナがヒロイン、サム・ニールが悪役。こりゃ、どう転んでもB級映画になるしかない。
職人ジョン・カーペンター(名前も大工さんみたい。)が1992年に監督していた『透明人間』はあまり知られていない。
チェビー・チェイスとダリル・ハンナが共演していて、ダリル・ハンナが『スプラッシュ』の面影を残し、まだまだ可愛らしかった頃なので、余計に時間の流れを感じてしまう。
ストーリー展開を追っていくと、クロード・レインズのオリジナル版とはかなり相違点があるので、いわゆるリメイクではない全く別物の作品であることに気づきます。
そうはいっても、オリジナル版への敬意はきちんと払われていて、ダリル・ハンナの前でチェビー・チェイスがはじめて変わり果てた姿を現す時には包帯を解いていくシーンがオマージュとして採用されています。
特撮はかなり頑張っていて、原子が不安定になって、半分消えかかっている状態のビルディングの全景は異様な外観です。
『漂流教室』をイメージすると分かりやすいかもしれません、って今どき何人の方があの漫画を覚えているかは分かりません。
この映画のテイストは昔の透明人間関連作品に比べると深刻さが影を潜め、コメディ要素を多く盛り込んでいます。例えば、食べ物が透明な内臓に入ると消化が始まる。
その様子は普通に映ってしまい、さらにそれらが消化し終わるとまた透明になってしまったり、自分の手足も全く見えないので服を着替えるにも大変苦戦するというような理屈っぽいSF設定には笑ってしまうし、主人公の主観で語られるシーンではきちんと普通の人間として写っています。
悪役を務めるサム・ニールがチェイスに拉致されるときの一人芝居(義太夫?)には爆笑しますし、見えないチェイスが歩いているとタクシーを呼ぼうと手を挙げたオジサンに出会い頭のラリアットを喰らうシーンなどは印象に残る。
また透明になっても彼と仲良くしてくれるダリル・ハンナがチェイスの顔を取り戻そうと顔面をメイクで再現した場面でのチェイスの顔がマイケル・ジャクソンの気持ちが悪かった頃を思い出させました。
ビデオ時代に一度は見ていたはずでしたが、けっこう多くの場面を忘れていたので、見直してみると作品の楽しさに気がつきました。
ジョン・カーペンターがどういう状況でこの作品を引き受けたのかは解りかねますが、スタッフで楽しく仕事をしたのだろうなあと想像できる暖かみを感じます。
ハッピーエンドで幕を閉じる珍しい透明人間映画でチェイスとハンナの子供が彼女のお腹の中にいるという状態にフォーカスを当てていましたが、これは続編を狙っていたということなのでしょうか。
サム・ニールがチェビー・チェイスの人格や社会的立場を語る際の台詞で興味深かったのは「彼は普通でこれといった特徴がなく、親しい友達と呼べる人間もいないので、透明になる前から、すでに誰からも見えていないのと同じだ。」というニュアンスの言葉でした。
現代社会では自分の存在はちっぽけなものに過ぎず、たとえ失踪したとしても、すぐに社会から忘れ去られるだけだという現実を突き付ける。
透明人間から普通の人間に戻れないことのみを取り上げて、映画は何も解決していないと受けとる方もいるのでしょうが、どういう容姿であっても彼を受け入れてくれる伴侶を見つけたということを観客は見逃してしまっているのではないか。
透明人間映画のテーマは失われてしまったアイデンティティをどうやって取り戻すか、どう向き合うか、没個性な世の中では全員がすでに透明人間とさほど変わりはないという諷刺でしょう。誰とすれ違っても顔も分からないし、興味もない。
向こうも同じで、こちらに対して何の興味もないし、ただの風景でしかない。そんな世の中に住んでいることに気づけば、自分の存在を証明するのが非常に困難なことに愕然とするかもしれない。関係のない人間は透明人間と変わりがない。
映画としての弱さはサム・ニールの迫力のなさだろうか。悪役に魅力がないと映画自体がどうにも締まらなくなってしまう。ただそれは彼のせいではなく、キャスティングした、もしくはせざるを得なかった状況のせいでしょう。
残念ながら、本国アメリカでの興行成績は惨敗だったようで、製作費の三分の一程度しか資金を回収できなかったそうです。DVD化もされているので、現在の映画の資金回収形態ならば、なんとかなったのでしょうね。
ただ、興行に失敗したからと言って、その映画の出来が悪かったのかというと一概にはそうとも言い切れません。この映画は名作とは言い難いですが、何とも言えない魅力があるのも事実です。現在、TSUTAYAさんでレンタル可能ですので、お近くの方はご覧ください。
総合評価 68点