良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『ロッキー』(1976)小学生だった僕にとっては素晴らしい映画との出会いの一つでした。

 テレビでの放送の次の日には学校の昼休みに必ず「えいどりあ~ん!!えいどりあ~ん!」と絶叫しながら、ぼくらはロッキーごっこをしていました。  お笑い対象にすらなってしまう本作ですが、なんだかんだ言っても、ビル・コンティによって命を授けられたファンファーレが鳴り響き、場末のボクシング会場に繋がっていくあのオープニングは観客を自然に物語の世界に引き込んでいきます。
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 前回、シルベスター・スタローンの記事を書いたあと、ぼくらのスタローンの栄光の始まりであり、かつ頂点でもある『ロッキー』を見たくなりました。  スタローン自身による脚本・主演という本作からはしっかりとした監督(ジョン・B・アヴィルドセン)を選べば、真面目な映画を作りさえすれば、彼が魅力的な光を放つ可能性があることを示してくれます。
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 あの何も変わらないどんよりとしたフィラデルフィアの貧民街で地べたを這いずり回って暮らしている人々の描写を捕らえるカメラは厳しい生活を冷たく眺めながらも、時に彼らに寄り添うように優しい。ラブ・ストーリーとしても素晴らしく、不器用な二人が徐々に引き寄せられていく様子も微笑ましい。  とても自然な感覚で素朴な様子はとってつけたような感じがない。夢も希望もない、その日暮らしの虐げられてきた人々は何も変わらないことを骨の髄まで理解している。夢は見ても無意味であり、有害ですらあることを各々の登場人物が表情や背中で語ってくれる。
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 アメリカン・ドリームはすでに死語になっている1970年代半ばではこの街の住人たちは不機嫌で目を伏せがちです。街の描写を見ていると違和感がありませんでした。  その理由は何故なのだろうと考えてみると、自分も昔、大阪の貧民街で縁があってバイトをしていたことがあるからだと気づきました。特定の名前を出すことは出来ませんが、反社会勢力と称されるお兄さん方が街を闊歩していて、あちこちに日雇い労働者が飲んだくれていたり、浮浪者が酒屋のゴミ箱を漁り、ほんの数滴ほど残っているワンカップ大関を取り出していました。
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 道端で労働者が倒れていても誰も見向きもしないという普通の街では見られない光景と厳然と横たわる格差は数十年前からすでにありました。社会的な敗残者が街中を這い回る一方で、この街で商売をしている人たちは億単位の資産を持ち、毎年海外旅行に出掛けていました。よくお土産をもらいましたので気のせいではない。  ただこういう地元の商売人の人たちが悪質であるわけではなく、みなとても気の良い人ばかりですし、僕も当時は可愛がってもらいました。一般的に怖がられるヤクザの人たちにしても、顔馴染みになったぼくらにはとても優しく、ずいぶんと印象が変わりました。
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 だからといって用心棒代を払うわけでもなく、普通に助けてくれます。暴力的な酔っ払いや労働者がぼくらや商売人の人たちに言いがかりをつけてくるのに出くわせば、彼らが追い払ってくれていました。  つまり、この街では長い間、働いたりしていると連帯意識が非常に強くなり、かえって安全なのです。学生時代のバイトですので商売人のオッチャンやオバチャン、近所に住む水商売のオネエチャン、バーテンダー、バンドマン、気の良いチンピラのあんちゃん、毎日挨拶してくれるゴミ拾いのオッチャンなどと接していると自分もどんどん街に同化していきます。
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 そんな感覚が蘇ってくるのがこの『ロッキー』なのです。俳優たちの名演技も見逃せない。第一はタリア・シァイアです。すでに『ゴッドファーザー』で世界中に顔を知られていたであろう彼女がわざわざ街のゴロツキのような人相が悪い無名俳優が主演及び脚本を務めるような低予算作品に出演しなければならない謂れはないでしょうから、本を読んだ彼女かスタッフが作品の素晴らしさを見抜き、出演を決めたのかもしれない。  タリア・シァイアに関しては当初この映画を見たときには「なんで、もっと綺麗な女優さんをヒロインにしなかったのだろう?」と思っていましたが、あの物語世界には圧倒的な存在感を撒き散らす美しいモデル(元妻、ブリジット・ニールセンみたいな。)のような女優はいらないのだと気づきました。
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 またハリウッド有名俳優と有名女優もいらない。街から浮かび上がってしまうし、リアリティが失われてしまいます。スタローンが自分が主演であることにこだわったからこそ、この『ロッキー』は今でも輝いている。  バート・ヤングが演じた皮肉屋のポーリー、誰からもちやほやされることなく、彼の面倒を見続けたエイドリアン(タリア・シァイア)、場末のジムで働くユダヤ人トレーナー(バージェス・メレディス)も忘れられないキャラクターです。『ロッキー3』でミスターTに突き飛ばされたために心臓マヒに陥り、帰らぬ人となる彼の葬儀シーンでは彼がユダヤ人だったことが分かる。
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 ポップ・スターのようなチャンプ役のカール・ウェザースがまた良い味を出しています。唯一明るいのは彼です。『ナイト・ホークス』でも共演していますね。才能があれば、人種に関係なく成功することが出来るのだというアメリカン・ドリームの筋書きはアメリカ人には受け入れやすい。  どこか勧善懲悪の時代劇が大好きな日本人の国民性と似ています。かつては毎年の年末にやっていた忠臣蔵などに代表される時代劇がすっかり廃れてしまったのは国民性の変化なのだろうか。
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 格差が圧倒的に広がり、富裕層と企業ばかりが優遇されて、普通の暮らしを営んでいた中間層がリストラされて非正規雇用に落とされて壊滅しつつあるアメリカではまだアメリカン・ドリーム映画は受け入れられる土壌があるのだろうか。  そして見終わってから気付いたのはシルベスター・スタローンの代表作である『ロッキー』と『ランボー』はあの時代の若者の表と裏なのではないかということです。貧しいながらも周りに暖かい人たちと寄り添うように生きていけたロッキー・バルボアはまだ幸せだったのでしょう。
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 一方、故郷にも帰れずに頑なに心を閉ざし、退役後もかつての上官に利用されたジョン・ランボーは30年近く死地をさ迷った挙げ句、ようやく故郷に辿り着きます。ハッピーエンドを迎えるロッキー。ハッピーエンドを期待するランボーシルベスター・スタローンが彼らに込めたメッセージは同じだったのだろうか。  小難しいことを言えば、この映画をもって、アメリカン・ニュー・シネマの時代は終わり、ハッピーエンドの娯楽作が復興してくる分岐点になった意味深い作品でもあります。
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 もうひとつ思い出しました。高校生の頃、運動部の試合の前の日に気合を入れるために生卵を五個ほどコップに割っていき、一気に飲み干そうとしましたが、途中で気持ち悪くなり、残り三つに醤油を入れて、フライパンでスクランブルエッグにしたのもバカバカしい思い出です。  そこまで影響を与えてくれたのがこの『ロッキー』なのです。スポーツ映画としてもアメリカン・ニューシネマとしても、そしてラブストーリーとしても素晴らしい作品です。  総合評価 90点