良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『沈黙-サイレンス-』(2017)遠藤周作不朽の名作。神とは何か。信仰とは何か。

 「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」「弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか?」(遠藤周作『沈黙』より)  新年第一回目に映画館まで観に行く新作映画は何にしようか迷っていて、今週末から始まった『ザ・コンサルタント』『沈黙』のどちらかにするところまでは決まりました。  あまり何も考えずに観られる楽しい映画を選ぶならば、前者の『ザ・コンサルタント』になりますが、見ごたえがあるのは間違いなくマーティン・スコセッシ監督、遠藤周作原作の『沈黙』でしょう。  ぼくの学生時代、すでに遠藤周作は大作家でした。そういう権威には反抗的な時期だったこともあり、ほとんど彼の作品は避けてきましたが、『海と毒薬』などの問題作が映画化されてきたこともあり、全く知らないわけではない。  『沈黙』では極限状態に追い込まれたときに自分ではなく、他人を救うために信念を曲げざるを得ない宣教師フェレイラ(リーアム・二ーソン)やロドリゴアンドリュー・ガーフィールド)の決断は是か非かだけではなく、目の前で苦しむ信者を救わない信仰とは何なのか、人間性そのものを問い掛けてきます。
画像
 中世までのキリスト者にとって、神の子であるイエス・キリスト(以下では映画と同じくジーザス・クライストで書いていきます)の死に方に近い殉教は憧れだったに違いない。それを諦めてでも、自分が広めた異教のために迫害される農民ら純朴な信者たちを救いたかったのではないか。  キリスト教会からすれば、主を裏切った許すべからざる大罪人という扱いなのでしょうが、寛容の精神も説かれている訳ですから、事情を汲んで許してあげてほしいものです。  ぼくは学生時代、長崎に住んでいたこともあり、クリスチャンの友人も数名いました。彼らとこの映画の原作『沈黙』の小説について話したことはありませんでしたが、大学の頃、日本に留学に来ていたアメリカ人女性と仲良くなり、当時の欧米ではスクリーン切り裂きや上映反対など物議を醸した『最後の誘惑』をビデオで見ることがありました。  敬虔なクリスチャンだった彼女は神を冒涜する内容だとかなり傷ついていました。奇しくも監督はこの『沈黙』と同じくマーティン・スコセッシです。ただ彼は決してセンセーショナルにジーザス・クライストを描きたかったわけではないでしょう。  彼が描きたかったのは等身大の悩める神であり、決して遠いところにいる権威としての神ではない、ぼくら一般の人々と同じ目線で大いに悩む人間から昇華した神様になる人間キリストを描きたかったのではないか。
画像
 どちらの映画も信念と葛藤がテーマであり、彼らの信念を試す試練には苛酷などという言葉では言い表せない厳しい末路が待っています。ゴルゴダの丘で全ての人々の犠牲となり、神となったジーザス・クライストは偉大です。  一方で生き恥を晒しながら、自殺が出来ないために死ぬという選択が出来なかったフェレイラのような“転んだ”宗教家の苦悩は余人には想像できません。  穴吊りなどの拷問を受けて死ぬ方がむしろ楽だった状況で、あえて生き続けるという不名誉な試練を選んだフェレイラもまた尊敬すべき指導者だったのではないか。  劇中で大きな役割を持っている、いわば最重要人物と言えるのは窪塚洋介が演じた人間のクズのような元・漁師です。宗教家としての信仰と度量が試されるのは奇跡が起こらなくとも信仰心を保ち、修行に邁進できる人々への伝道ではなく、迷いに迷って裏切る人々や敵対する人々に対しても寛容な心や憐れみの情を持ち続けることが出来るかが重要なのかもしれない。  イッセー尾形が演じた筑後ノ守はもとは切支丹だった(たしか原作ではそうだったと記憶していますが、映画では触れられていない)のが転んで現在の官職に着任した経緯があるので殉教に関しては憧れと嫉妬がない交ぜになった複雑な感情を持ち続けていたかもしれません。
画像
 つまり、心の中は依然として隠れ切支丹だとすれば、苛烈な取り調べや拷問にかけることで信者をキリストに近づく殉教へと導く役割をしていたことになります。とすれば、彼もまた苦しみ抜いていたのかもしれない。  かなり暴論ではありますが、徳川幕府に不満を持っていたであろう地方ではスペインやボルトガルがキリスト教への弾圧を聞き付けて、信者解放のため艦隊で押し寄せて信者を十字軍のように解放するという発想はなかったのだろうか。  もっとも新たな侵略と破壊をもたらすだけでしょうが。窪塚洋介が演じるキチジローは軽蔑するべき人物像でありますが、実在した人物ではありません。ただこういう感じの無数の人々をモデル化し性格を集約して出来上がったのが彼の役柄です。  ほとんどの人間は完璧からは程遠く、どうしようもなく厭な癖を七つ以上は持っています。それを小説や映画で各キャラクターにちょこちょこ盛っていくと観ている人や読んでいる人にはややこしく理解しにくくなっていきます。  主役や主なキャストは様々な一面を持たせられるが、それ以外であれば、せいぜい各キャラクターに二つくらいしか役柄の性格を持たせられない。キチジローこそがこの映画において周りの人々をはらいそに導く気づきと赦しを与えられる砥石のような存在です。
画像
 しかし彼は毒薬であり、現世の価値観では最低最悪の悪人でもある。現代社会にも無数のキチジローは存在し、普通の人間の面を被り、社会に害悪を撒き散らしています。会社や学校にもいるでしょう。  注意されるようなミスをしでかして叱られると上司(注意した人)や同僚の悪口をその上の上司に密告する輩は大勢います。自分が犯したミスはきれいさっぱりなかったこと、もしくは大したことではないかのように開き直り、上司を陥れる。  すべてを上司や同僚に押し付ける癖に自分に都合が悪くなることがあれば、平気で恩を忘れ(上司が部下である自分のミスの後始末をするのは当たり前と考えているクズ)、何食わぬ顔で密告する。こういう手合いに成長などないだろう。  この世の中は程度は変われど、キチジローだらけの住みにくい世界です。こういう輩に出会って、厭な目に遭わされてもじっと耐え続けるのが中間管理職なのでしょう。娑婆の修行もなかなか辛い。  65才定年が普通になるでしょうから、はらいそ(定年ゴール)まであと18年です。まだまだ長いなあ。会社(教会)は権威を保つために綺麗事ばかりを言う。皺寄せは現場にすべてくる。はらいそへの道は会社(教会)中枢ではなく、雑多な厭な人ばかりの現場にある。
画像
 じっと耐えて仕事を続ける中間管理職(宣教師)に神は沈黙を続けるのでしょう。ただ寄り添ってくれていると信じられるだけで良いとしよう。神は尊ぶべきであり、頼るべきではない。  窪塚洋介イッセー尾形以外の俳優陣も素晴らしく、主演のアンドリュー・ガーフィールド(『ドリーム・ホーム』でも主演)、アダム・スナイパー、リーアム・二ーソン、浅野忠信塚本晋也(『鉄男』の監督さんですね。水吊り?にされる農民役)、小松菜奈(汚れた感じのメイクにするとそんなに魅力的には見えない)らが緊張感のある演技を見せてくれています。  これは映画が終わってから気づいたことで、おそらく偶然なのでしょうが、スターウォーズ・ファミリーであるアダム・スナイパーやリーアム・二ーソンがいるのも楽しい。ふざけた映画ならば、「フォースでやっつけちゃえ!」とか言えますが、この緊迫した映画では完全にスターウォーズを忘れて見ていました。  劇中で宣教師たちがマカオ窪塚洋介と出会い、彼を道案内役に使い、長崎近海から小舟で密入国した後に、さらに濃い霧の中を進んで五島列島に潜伏しようとするくだりがあり、どこかで見たことあるシーンだなあと思い出しているとそれは溝口健二監督の代表作の一つ、『雨月物語』でした。艶めかしい水の動きと霧に包まれる小舟が印象的なパートでした。  確認してみるとマーティン・スコセッシ監督もこのシーンをイメージしながら撮影に臨んだそうです。日本人映画ファンとしてはこういうふうにオマージュを捧げてくれると嬉しくなります。
画像
 その他、筑後ノ守(イッセー尾形)に捕えられた後にリーアム・ニーソン(フェレイラ)と再会するお寺の渡り廊下を歩くシーンも『雨月物語』に似ていると感じていました。  師が棄教したのに続き、アンドリュー・ガーフィールドも穴吊りの責め苦を見せつけられて転びます。大きな見せ場である彼の棄教シーンとキチジローが最後に懺悔をするシーンで神の御子キリストは独白のようにアンドリューに語りかけてきます。  苦しみ抜いたアンドリュー・ガーフィールドが転んで棄教する場面はサイレントとスローモーションで表現されています。全編通してスコセッシが描きたかったのは信仰と葛藤であり、観客が集中して見やすくするためか、彼らしいセカセカとしたカット割りを行わず、オーソドックスな見せ方を選択しています。  アンドリュー・ガーフィールドとアダム・スナイパー、リーアム・ニーソン窪塚洋介の人間模様は複雑で善悪で語れない。宗教家としての地位が高かったリーアム・ニーソンや人間としてどう現実的に人々を救えるかで迷っていたアンドリュー・ガーフィールドは生き恥を晒しながらも生き残る。  一方、直情的だったアダム・スナイパーは処刑される人々を助けようとして殺害され、そして大きな災難から十数年を経てから、裏切り続けた窪塚洋介が隠れ切支丹として捕縛されるのは意外でした。
画像
 日本人として最後を迎えたアンドリュー・ガーフィールドの冷たくなった手の掌に妻が密かに十字架を握らせてあげるカットに彼の苦悩が描かれ、無表情ではあるものの彼の妻の優しさが表現されています。  映画は夏が主な舞台であることが蝉の声で分かる。蝉の声で始まり、蝉の声で終わります。現在、世界各国では今も宗教弾圧が行われています。神の名を語り、異教徒を迫害する。それは神の心に叶うのだろうか。  映画館は本日は平日でしたので、有休消化でゆったり観ようと思っていましたが、団体客がスクリーン収容人数の七割程度を占めていて、一般客と思われるのは三割程度でした。  キリスト教の信者の人たちでしょうか、もしくはキリスト教への勧誘のために老人ホームの人々に前売り券を配ったのだろうか。
画像
 宗教弾圧映画なので、打ち首や穴吊り、火あぶりなど切支丹への残虐な処刑シーンが多いので高齢者の信者にはどのように映ったのだろうか。  二―ソンとアンドリューの会話では日本ではキリスト教は広まるか、根付かないかどうかが議論されます。ここで彼らが話すのは農民は神を理解しているのではなく、ただ現世の辛い農民生活から解放されるためには楽園である“はらいそ”を信じて死ねば良いというどちらかというと刹那的ですらあることを論じているのだろう。  また仏教信者の神とは大日如来、すなわち太陽なので、仏教徒は毎日奇蹟を見ることが出来る。一方で、キリスト教の神はずっと当時の日本では沈黙したままで、劇中、信者にはただただ責め抜かれるだけです。そんな中でも明治まで信仰を保ち続けた隠れキリシタンの方の苦労は言葉には出来ない苛烈なものであったことでしょうし、強靭な信念を持ち続けられたのでしょう。  今回、ぼくを含めた一般客は無理矢理に本来取りたくない座席で鑑賞せざるを得ませんでした。上映中に携帯で時間を確認するため、何度も液晶画面が光らせたり、着信音を微妙な大きさで何度も鳴り響かせる、マナーが悪いバカババアがいたのでかなりイライラさせられました。キチジローはすぐそばにいました。  そんなにつまらないのだったら、さっさと出ていけば良いのです。しかし上映されているのは赦しをテーマに掲げる作品でしたので、広い心を持って、軽蔑すべきバカババアにでも赦しを与えようと思いながら、見続けていました。 総合評価 85点