『カビリアの夜』(1957) フェデリコ・フェリーニ監督の才能と暖かみを感じる佳作。
『カビリアの夜』は1957年製作の作品であり、フェデリコ・フェリーニ監督の一番の理解者でもあり、妻でもある女優、ジュリエッタ・マッシーナが、監督の長編デビュー作でもある『寄席の脚光』(1950)、名作の誉れ高い『道』(1954)、モノクロが美しい『崖』(1955 日本公開は1958)、に続いて主演を務めました。音楽には盟友、ニーノ・ロータが付き、フェリーニ独特の世界観をさらに色付けしています。
この映画がどういう性質のものであるかは、冒頭での売春婦役を務めたジュリエッタに対する、彼女のヒモの裏切りと川への突飛ばしシーンを見るだけで、容易に理解できることでしょう。ローマの貧民街に住む最下層の女と男を、飾ることなく描きだした作品であるにもかかわらず、何故か、どこかとぼけていて、深刻さや暗さがないのはフェリーニの描き方のためなのか、ジュリエッタの演技のためなのか、それともニーノ・ロータの音楽のためなのか、もしくは三者の結合のためなのか。
主演女優のジュリエッタ・マッシーナ、作曲家のニーノ・ロータ、そして脚本も書く、フェリーニ監督が揃う時、なんとも言えない不思議で暖かい雰囲気がスクリーン上に溢れてくる。売春婦が裏切られ、殺されかけて、人生に絶望する物語であるにもかかわらず、なぜ前述したように、暖かさを感じるのだろうか。フェリーニ監督自身が生き地獄とも言える、底辺でのたうち回っている人間たちに向けている、まなざしの暖かさがそのまま作品にも表現されているからかもしれません。
この作品では派手なカメラの動きは一切なく、固定カメラでのカット割りと、パンを繰り返している映像が多い。無駄なカメラの動きがない替わりに、モノクロでこそ活きる、光と陰のバランスを上手く処理して、奥行きと深みを表現し、観客の視点をあちこちに移動させないカットと構図の構成で作品を作り出している。それでいて、「のろさ」を感じる事もないのは、会話シーンでの、理にかなったカット割りとプロット運びでのテンポとリズムに優れているからであろう。
一見したところ、テクニックを使っていないように思えるのでしょうが、なにげなく、センスのある編集がされています。フェリーニ監督は観客の生理を考えた上で、フィルムを構成しているのです。だからこそ、フェリーニ作品には難解なものが多いのにもかかわらず、イタリアのみならず、日本でも世界でも愛され続けているのではないでしょうか。
温かみ、懐かしさ、ほろ苦さ、色彩などいろいろな素晴らしさが、フェリーニ作品には沢山あるのですが、初期作品だからこそ、彼のエッセンスをより強く感じます。なんというか、フィルム自体がとても力強いのです。
そしてニーノ・ロータがフェリーニ作品で果たした役割と貢献は、多大なものがあります。ロータの死後に発表したフェリーニ作品が音楽面だけでなく、作品自体も質が下がったように感じるのは自分だけなのだろうか。
『ジンジャーとフレッド』に関しては、フェリーニ監督、主演俳優のマルチェロ・マストロヤンニ、主演女優のジュリエッタ・マッシーナというトリオが揃った、初めての作品だったために緊張感もあり、質の高いものになっていますが、その他に関しては、必ずしも最高の作品とは思えない。この『カビリアの夜』という作品での、陽気で、猥雑で、もの哀しく、どこか懐かしい音楽はまさにロータの音楽です。
フェリーニ監督作品では4人の主要人物がいます。一人目は当然ながらフェデリコ・フェリーニ監督、残る三人はマルチェロ・マストロヤンニ、ジュリエッタ・マッシーナ、そしてニーノ・ロータです。彼ら四人が一同に集まった作品は、意外なことにただの一本もありません。フェリーニ以外の誰かが常に欠けています。言い換えれば、三人揃えば、素晴らしい作品を制作できるのです。
フェリーニ監督に、マルチェロ・マストロヤンニ、ニーノ・ロータが揃った時には『甘い生活』、『8 1/2』という、とても刺激的な作品が出来上がりました。フェリーニ監督に、ジュリエッタ・マッシーナ、ニーノ・ロータが加わったものには『カビリアの夜』、『崖』、『道』、『魂のジュリエッタ』という物語性と生命力に溢れる作品が出来上がりました。
そしてフェリーニ監督にマストロヤンニとマッシーナが一度だけ顔を揃えた物には、各々が円熟期を迎えた『ジンジャーとフレッド』があります。『アマルコルド』や『青春群像』など、二人だけしか揃わなくても素晴らしかったものはありますが、上記の作品群ほどではないように思えます。
この作品にはロータとマッシーナが参加しており、各々が素晴らしい存在感を持っています。マッシーナの、カビリアというキャラクターは『白い酋長』にて既に一度出てきてはいますが、彼女の演じた、陽気で人を信じようとする娼婦は今見ても活き活きとして、魅力に溢れています。
我々が思い描く、イタリア人女優の中では、お世辞にも綺麗とは言い難いジュリエッタですが、意志をはっきりと伝える、素晴らしい「目」を持っています。目で勝負できる女優は貴重であり、見る者に強い印象を残します。
難しい役割を自然に演じたジュリエッタ。演技派と呼ぶには彼女は常に新鮮です。スターと呼ぶには彼女は美しくはない。ただ、フェリーニ監督作品において、常に力強い存在感を示すのはジュリエッタ・マッシーナ、その人です。
誰よりもとても小さな、しかし誰よりも声がでかい「がらっぱち」の娼婦を演じる彼女が、作品中で登場する、若くて綺麗な他の女優よりも大きく、魅力的に見えるのは不思議なのですが、痛快で楽しいのです。
過去ではなく、今と未来のみを生きる「女」を見事に演じきっています。踏みつけられても、踏みつけられても希望を持って生きようとするジュリエッタの生き様はイタリア的な生への信念を見せつけられるような気がします。
悲惨でも絶望しない。上手くいかないのは当たり前で、何処で折り合いを付けるのかが、大人なのである。決して楽観しない。決して絶望しない。イタリア人である、フェリーニ自身の考えなのかもしれません。
デ・シーカ監督の『自転車泥棒』、ロッセリーニ監督の『ドイツ零年』など、悲惨で救いのない映画を数多く生み出した、イタリア・ネオレアリズモの運動ですが、いち早くその呪縛から脱却したのが、『道』を発表した後のフェリーニ監督です。
そのため、評論家筋やマニア筋からの批判に曝されたようですが、いつまでもひとつの運動に固執する必要はありません。時代の要請で生まれるのが、映画であり、時代に背を向けたものは孤高を気取るか、消えゆくかのいずれかであろう。
この作品ではネオレアリズモならば、ひたすらに悲惨さを抉り出し、虚飾を排して、突き放して描くだろうテーマを、彼独自の人生観に、猥雑な笑いと哀しさの要素を込めながら、生命力の強さを物語として描き出す事に神経を集中しているように思える。
こうした彼の描き方を援護しているのが、ジュリエッタとロータである。だからといって、ネオレアリズモを完全に放棄したわけではなく、この運動で培った製作姿勢を基盤として、あらたな映画を作り出していこうとしているのは、汚い街をそのまま使ったロケーションの選択、自然音の使い方、さりげないカメラワークを見ても明らかであろう。
ラストシーンでの湖の美しさと、人間の汚らしさが見事に対比されています。「殺して」と絶叫するマッシーナの姿を忘れる事は出来ない。またラストシーンで、若者達と一緒に歌いだし、踊りだすだろうマッシーナを想像する事が容易に出来る。シチュエーションとしてはオープニング・シーンの再現となる、つかの間の幸福と絶望、そして希望。
救いのない、この映画ではあるが、救いとは一体なんなのだろうと考えさせる映画でもあります。悲惨な環境にいても、生きているだけでも、希望を持てるだけでも人生は素晴らしいものです。だって死んでしまえば、映画を観られませんしね。
総合評価 85点
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