良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『パリは燃えているか』(1966)敵味方にかかわりなく、ヨーロッパ人は深いところで繋がっている。

 作品が始まる前、幕が閉じられたまま、五分弱の序曲がかかる。『ザッツ・エンターテインメント』みたいです。観客に、この映画が大作であることを宣言しているようでした。パラマウント映画の映像が出てきますが、米仏合作映画となっています。  ただ、合作とはいっても、何度観ても、老獪なフランス人たちに、単純なアメリカ人が母屋を乗っ取られている感じがします。今回は十数年ぶりに、とある事情から、この映画を見直しましたが、あらためて、かなりレベルが高い作品だと実感しております。

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 その理由は今週に入り、三回見たからです。かなり長い尺(175分)の作品なのですが、一気に見ることができる絵巻物のようなフィルムなのです。寝不足気味にはなりましたが、あらためてこの作品を見るきっかけを作ってくれた、盟友であるトムさんには感謝いたします。

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 あのように米仏を代表するスターたちを使いながらも、オール・スター・キャスト映画によくありがちな、スター臭さをまったく出していません。ロベール・ブレッソン的にいうと、みながフィルム中の「モデル」であり、特別扱いもされず、また、ルネ・クレマン監督も、彼らを撮るべき対象として扱い、職業俳優的な使い方をしていません。

 

 さらに映画を身近に感じさせるのは実写のニュース映像などから選ばれたものと思われるフィルムを要所要所に配しているので、ドキュメンタリー的な要素も多く盛り込んであるからでしょう。他人の描く絵空事ではない、作り物ではない、実際に自分たちが経験した、自分たちの戦争だったのだ、という視点が生々しい。

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 これはとても新鮮な感覚を与えてくれます。なんとも心地よく、三時間が過ぎます。そこがたまらない魅力なのですが、ハリウッド映画を見慣れた人に言わせると、「キャラが立ってない!」となるのでしょう。まあ、実際にもっと深くまで、登場人物の内面にいたるまで、そして彼らがその後、どういった運命を辿るかまでを暗示させてくれるようにドラマチックに撮っていたならば、いまよりも不朽の名作としての地位を、そしてルネ自身も批判に晒されることもなく、巨匠としての圧倒的な地位を保てたのかもしれません。

 

 自身のメッセージをすべてフィルムに入魂できる環境にあったのであれば、そうしたでしょう。しかしながら、こういう大きなスケールの映画を撮ろうとすれば、妥協せねばならない部分もまた存在する。パリの街中というロケーションの問題と費用、キャスティングの難しさとスケジュールの難しさは代表的なものでしょうが、それ以外にもスポンサーによる干渉なども無視できるものではない。

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 連合軍側(アメリカ・サイド)に気を使っているためか、内ゲバ的な醜い部分はフランス人内部及びドイツ軍との関係性のみが語られ、アメリカ軍への不満はあまり大きくは述べられない。綺麗ごとではない、フランス陣営、ドイツ軍、連合国軍(革命ロシア軍はまったく描かれていない。)という、本来三つ巴のドロドロした、大いなる葛藤と醜さを描けたはずのこの作品でしたが、尺やスポンサーの関係上(?)、こういう展開で落ち着いたのではないでしょうか。

 

 そうした部分ばかりにスポットを当ててしまうと、スケールが矮小するのも事実ではありますが、ドキュメント映像を挿入することで、それは防げているのです。本物に勝る迫力はないのですから、そうしたことは気にせずに、敵味方の別なく、遠慮なしに抉って欲しかった。

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 大規模な戦争映画はある意味、戦勝国プロパガンダに過ぎない。しかしながら、この映画のように戦争の無意味さや馬鹿馬鹿しさを描きながらも、実は敵味方問わずに人間自体の愚かさが画面から出ているのは貴重なのである。ナチの悪を描くのは当たり前すぎて面白みもない。解放だけにスポットを当たるのも単純すぎて、これまた当たり前すぎる。

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 そこを穏健なドゴール派のシャバン・デルマス(アラン・ドロンが担当。実際のシャバンはフランス首相まで上り詰めた後、権力闘争に敗れ、中央からは失脚。)と、過激な自由フランス軍のロル大佐(ブルーノ・クリーマー)との対比と主導権争いを絡めることで、人間の本質は人種も敵味方も関係なく、切迫した状況でもなんら変わりがないという滑稽な、シニカルな視点も垣間見える。

 

 観た人ならば、ご理解いただけるのですが、結構あちこちに笑いの要素が盛り込まれているのです。かなりブラックで、シニカルな笑いではありますが、これこそがヨーロッパの真骨頂とも言えるのではないでしょうか。英雄にはなりきれない、いちヨーロッパ人としての彼らを描いているのは好感が持てるし、親近感も湧きます。

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 また、敵味方の区別なく、全員がヨーロッパ人(アメリカ人は除く。)なのだという共通認識があちこちのシーンで見えます。そんななかで、アドルフ・ヒトラー(ビリー・フリック)だけが終始ドイツ語でしゃべり続けることにはかなり深い意味があるように思います。

 

 第二次大戦の大激戦中、それもノルマンディー上陸作戦と並んで、ヨーロッパ戦線のクライマックスとも言えるパリ解放間際という特別な時期を切り取った作品であるが、よくあるような過剰な演出はなく、どちらかと言えば、全体的に地味に落ち着いた雰囲気が漂う。

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 アメリカの第二次大戦映画のど派手な演出に慣れきってしまった者には少々退屈に思えるかも知れません。また後世の歴史家やマスコミなどはドラマチックに勝利や敗北を語りたがるので、何も知らない視聴者はその通りに受け取ってしまう。

 

 講談と現実はまるで違うのはよくある話ですし、美化したほうが都合が良ければ、そういったフィクションのフィルターがかけられた括弧付きの事実が一般常識となる。とりわけアメリカ映画ではドイツ軍と日本軍は常に打倒されるべきエイリアンであり、同じ人間として扱われていませんでした。

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 しかしながら、この作品は米仏合作ではあるものの、フランス人監督であるルネ・クレマンに委ねられ、主要な役どころもジャン=ポール・ベルモンドイヴ・モンタンアラン・ドロン錚々たるフランス人俳優がキャスティングされています。彼ら超一流の俳優たちとバランスを保つように、フランス人以外もカーク・ダグラス、コルティッツ将軍(ゲルト・フレーベ)、オーソン・ウェルズ、ラベの妻(レスリー・キャロン)、ブラドリー将軍グレン・フォード)、アンソニー・パーキンス、ビリー・フリック、ジョージ・チャキリスらが起用されています。

 

 中でも出色なのはゲルト・フレーべとビリー・フリック。どうやっても、カッコ良くはならない役なのに、彼ら二人がいたおかげで映画が締まっています。とりわけ、ゲルト・フレーべが演じた、コルティッツ将軍のヨーロッパ人としての常識とヒトラーの狂気の命令とのあいだで揺れ動く葛藤は凄みがありました。

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 この映画で見せる、彼らの演技が各々のベストかと言われれば、そうとは答えられませんが、彼らの持つ力はこの戦争映画という特異なジャンル映画のなかでも、十分に発揮されています。大人の雰囲気が充満しているのに加え、極限化に置かれた人々という緊張感があるなかでも、どこか落ち着きのある不思議な作品です。

 

 アメリカとの違いは、ヨーロッパのほうが人生がもう少し複雑に出来ているということでしょうか。休戦を巡ってのレジスタンスとドイツ軍の罵り合いなどは見ていて、むしろ互いの円熟した文化を感じさせてくれました。また歴史を大切にする想いは敵味方の区別はなく、ドイツ軍の将軍がヒトラーからの命令と自分の価値観とのあいだで板挟みになるさまはまさにヨーロッパ人の感覚である。

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 こうした部分をしっかりと描いたルネ・クレマンはただの監督ではない。彼が描いた、または切り取ったヨーロッパ人の皮膚感覚は今見ても、とても新鮮でした。全編英語が使われているなかで、ビリー・フリック(ヒトラー役)のみがドイツ語で話をする。

 

 英語をしゃべらせたくないという製作サイドの政治的な思惑があったのか、それとも彼のみをヨーロッパの異分子として浮かび上がらせたかったのか。演出の意味は際立たせることか、それとも彼に全責任を負わすことで、彼以外の人々(戦勝国も敗戦国も含めて。)の責任を覆い隠すための隠蔽工作の一環か。

 

 作品を語る上で、こうして出来上がったフィルムに大きな責任を持つ、ルネ・クレマン自身の考え方も気になるところではありますが、彼にはヒッチコックブレッソンとは違い、彼のことを丁寧に書き記した書籍もなく、自著もないので、彼の生き様、つまり経歴と作品から察するしかない。

 

 第二次大戦中は彼も、ジャン・ギャバンがディートリッヒを残して、従軍したのと同じように、フランス解放のためのレジスタンスに参加していたそうです。よしにつけ、あしきにつけ、この戦闘を経験した者だけが知る、穏健派と過激派の温度差やドイツ軍との接し方がとてもよく出ている映画だと思います。

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 ヨーロッパ人として分かり合える部分と徹底的に乖離し、相容れない部分とがはっきりと示されている。大同には合意するものの、方法論やイデオロギーが正反対であろう左翼とリベラルの暗闘、もしくは恥部ともいえる醜い戦いも平行して描かれている。大きな敵を目の前にしても、小さなこだわりやプライド(ここでは傲慢さと言い換えても良いかもしれません。)を捨てられない両者の様子は滑稽でもある。

 

 フランス陣営も、ドイツ陣営も決して一枚岩ではないという当たり前のことを大きな(予算や宣伝を含めた大掛かりなものという意味です。)映画で言い切ったのはルネ・クレマンならではと言っても良いのではないだろうか。

 

 少し話がずれるかもしれませんが、「転向」を悪くいう者がいる。パリパリの左翼が転向した場合、彼は裏切り者扱いをされる。だが考えて欲しいのは、極限状態に置かれた、当時の人間には、キリストに取って代わる新たな神としての共産主義思想が空気や水と同じく必要だったのだろう。

 

 生きるモチベーションとしての共産主義思想が戦後不必要になったのだから、それを捨てるのは何も不思議とは感じない。むしろ、ずっと理想に縛り付けられるほうが不健全なのではなかろうか。同じ意味で、ネオレアリズモにこだわるロッセリーニの頑固さと比べた場合、フェリーニヴィスコンティの方法論の変化の的確さ、もしくは時代を読み取る力の正確さを挙げてみる。

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 表現方法は各々が最もこだわるデリケートな部分ですが、それが観客や時代に合わないと感じたときの表現者の対応は人それぞれであろう。思想も同じなのではないだろうか。ある思想が必要な時にはそれは熱烈に人々の心を打つだろうが、それは永遠ではない。ある一定の期間を過ぎれば、それはファッションのように捨てられて、また新たなファッションを求める。

 

 考え方としての思想は頑固な人々や、他を見つけられない人々によって、より過激に支持され続けるであろうが、その人口はどんどん減っていくものである。ネオナチにしろ、共産党にしろそういうものなのだろう。思想とファッションを一緒にするのは強引過ぎるかもしれませんが、何かの新しい思想が流行るときにはその前に流行ったものは徹底的にこき下ろされる。

 

 ずいぶん横道にそれてしまいました。  映画はヒトラーの怒りとイライラに始まり、ヒトラーの絶叫で閉じられる。しかもその叫びは誰の耳にも届かない。もう誰も彼のいうことに聞く耳を持っていないのだ。 「パリは燃えているか?」「パリは燃えているか?」が虚しく響き渡る。

 

 その後、誰にも聞こえなかった彼の絶叫とは正反対に、穏健派も過激派も日和見派もかかわりなく、それまで硬く門を閉ざしていた市民がいっせいに扉を開けて沿道に出てくる。パリ市民から自然に沸き起こる『ラ・マルセイユ』の大合唱は感動的である。解放のときがついに来たのだ。ノートルダムの鐘も鳴り響き、長くつらい戦いは終わった。

 

 ただしここにも問題点はある。全編通してパリの市街地はほとんど無人であったのに、いざナチとの勝敗が決すると、まるで自分が勝利者のような顔をして、表通りを闊歩する市民たち。

 

 守ったのは戦った人々であって、彼らではない。サボタージュなどの消極的な協力はしたであろうが、全員が勝利者であるはずはなく、積極的にしろ、消極的にしろ、自分の国を売った者は大勢いたはずである。ドラマチックな演出であるが、どこか醒めた目で見ていたのも事実でした。

 

総合評価 92点 パリは燃えているか