良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『希望 テルエルの山々』(1939)スペイン内戦を間近で見たアンドレ・マルロー唯一の監督作品。

 ファシストで、ファランヘ党総統のフランコ将軍の率いる軍隊の侵攻に立ち向かうべく、共和派の戦線に参加するためにスペイン入りした、アンドレ・マルローが書いた小説を彼自身が監督して撮りあげたのが、この『希望 テルエルの山々』です。  この映画は戦後の1945年にルイ・デリュック賞を受賞しました。完成してから6年も経ってからの受賞ですが、この間、フランスはナチスドイツにより占領されていましたので、これほど時間がかかってしまいました。つまり、フランスは「時計」が止まっていたのです。

 

 スペインもまた、稀有な国である。ヨーロッパのなかで、第二次大戦後も共産党の脅威や民主主義が猛烈な勢いで地球上を覆う時期に、生き残った、唯一のファシスト政権である。  マルローは共和派(スペイン人民戦線政府)に味方して、フランコ側と戦ったレジスタンスの戦士であり、戦争中隠れていたくせに、決着がついてから、自分が勝利者面をして、あれこれとしたり顔で物言う、わが国の卑怯者の評論家とはわけが違う。

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 この映画も戦火が激しいこの国の中で、ゲリラ撮影を強行して制作されたようです。字幕が多かったり、ちゃちな模型撮影があるので、白ける方もいるのかもしれませんが、物資もない、不安ばかりのこの時期に、これほど丁寧に描いただけでも奇跡的である。

 

 将来への不安と軍事的な緊迫感が全世界を覆いつつも、なんとか保たれていた、危うい均衡がナチスの侵攻によって崩壊した1939年に製作されたのが、アンドレ・マルロー監督作品の『希望』です。自由を第一に重んじる市民だと自認していたはずのパリの人びとはこういう状況でも、まるで他人事のように、我関せずと安眠を貪り続けていました。

 

 この時期はヒトラー率いるドイツ軍がハートランドウクライナの穀倉地帯やその奥の鉱物資源)を手に入れるための第一歩となるチェコなどのボヘミア盆地へと通じる、戦略上の通行拠点になるポーランドを満を持して侵略したという、かなりデリケートな情勢にありました。

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 「ボヘミア盆地を制する者はハートランドを制する。ハートランドを制する者は世界島(ユーラシア大陸)を制する。世界島を制する者は世界を制する。」とは地政学マッキンダーのテーゼであります。また、ヒトラーの副官であったルドルフ・ヘスはドイツの地政学者カール・ハウスホーファーを師事していて、彼の生存圏理論は『わが闘争』にも多くの影響を与えています。まさに彼の言葉に呼応するような動きをナチスは始めていました。日本も大東亜共栄圏などを提唱していましたので、全世界的な侵略者たちの自己正当化理論だったようです。

 

 思想的には共産主義ファシズム、民主主義の優劣がまだ決着せずに、むしろファシズムが優位に立っていたかもしれません。思想の流行は全世界という規模で捉えると、それらが三竦みになっていました。思想のみならず、政治的にも軍事的にも、どちらが優位に立つのかを模様眺めしていた民衆は多数いたであろうし、財界も得するほうへ投資するべく、あれこれと皮算用をしていたであろう。

 

 今でこそ、第二次大戦は勝敗が決しているため、ナチス・ドイツ大日本帝国の味方に付こうなどという者は皆無であろうと考えられるが、あの敗戦後の苦境を抜け出し、急速に勢力を拡大し、思想すらも一本化した破竹の勢いのヒトラー、そしてロシアの侵略を食い止め、第一次大戦も抜け目なく動いた大日本帝国に憧憬と羨望の眼差しを送っていた、アジア及びアフリカの政治家や青年実業家は多かったのではないだろうか。  

 

 結果として、ドイツや大日本帝国が滅びたのはいわゆる枢軸国が、現地を支配していた体制からの解放者ではなく、さらなる苦渋を強要する侵略者だったからである。またドイツではアーリア人優位、日本では脱亜入欧の他民族蔑視の風潮が占領軍にもあったので、失望した、現地の人びとが反乱を起こしたのではなかろうか。

 

 もし両国の支配が圧制を強いるものではなく、各占領地の文化を尊重し、産業などを支援するものだったならば、歴史は変わっていたかもしれません。今となっては当時、各国の巨大企業が戦争時に、どういった醜い行動を取っていたかを知るのは困難です。

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 それはさておき、今回採り上げるのはドゴール政権下で文化相を務めた、アンドレ・マルローが唯一、つまり、彼の生涯で、たった一本のみ監督した『希望』です。この作品はアメリカ映画のように派手なスペクタクルはなく、血生臭さが生活に溶け込んでいるテルエル・リナス村でのお話という、本来のというか、どこにでもあったであろう、スペイン内戦時の有り様を描いています。

 

 『パリは燃えているか』『アルジェの戦い』とフランス映画やイタリア映画の描く戦いは民衆レベル、もしくは自分のそばにある抑圧とそこからの解放であることが多い印象がある。しかも一方的に敵を批判するような、アメリカ映画の傲慢さはなく、自分たちに都合の悪い卑怯さなども皮肉たっぷりにえぐり出す。

 

 戦争には勝者と敗者が生まれるだけで、正義と悪が決まるのではないからだ。そこがはっきりと認識されているヨーロッパ映画アメリカ映画に比べるとやはり、文化的に熟成されていて、奥が深い。

 

 ここで扱われているのは侵略者へのレジスタンスという単純な構図ではなく、同じ国民同士が血で血を洗う内戦なのである。カスティージャ、カタルーニャバスク、アンダルシアが無理やり一国にまとめられているのがスペインなのである。

 

 サッカーでも、スペイン代表チームよりも、レアル・マドリッド(カスティージャ)、バルセロナカタルーニャ)、アスレチック・ビルバオバスク)の方が人気があるのだ。レアル・マドリッドはカスティージャのチーム、つまりフランコ政権下の支配者側のチームだったので、ずっと保護されていました。

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 しかしながら、母国語を禁じられた他地域のチームにとって、スペイン代表は憎い支配者の代表であり、首都マドリッドにあるカスティージャのレアル・マドリッドがメンバーの大半を占める敵でしかなく、当然のことながら、まったく人気もありませんでした。応援を得られないので、強くもありませんでした。どんなに良いチームを作っても、どんなに悪いチームを作っても、結局は勝てないチーム、それがスペイン代表だったのです。

 

 こうした支配と被支配の関係があるから、今でもレアル・マドリッドバルセロナの戦いは異様な盛り上がりを見せるのです。実際、仮にどちらかが優勝したとしても、このダービーに負けてしまったならば、その年の優勝は色褪せてしまう。阪神が優勝しても、巨人に負け越せば、何の価値もないのと同じです。

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 だいぶんと横路に逸れましたが、当時はまだ、意識的にも決着がついてないスペイン内戦を題材にとっているので、歴史的な総括は出来ていないし、作品中でも、腫れ物に触れるような表現に落ち着いてしまっている感が否めない。

 

 それだけ当時は一般大衆のみならず、知識人ですらも明日すらも分からないし、価値観も揺らいでいたという状況だったのでしょう。今になって、そうした揺らぎを卑怯だと罵るのは容易ではありますが、後からは何とでも言えます。基本的に、人間というのは追い詰められないと、そして自分に降りかかってこないと、物事を真剣に考えない動物なのです。そのなかでレジスタンスに加わったのは事実であり、誇るべきことなのではないでしょうか。

 

 よって、この作品に主義主張の太い筋とファシズムへの怒りが鮮明に描かれていないといって、アンドレ・マルローの表現の甘さを批判するのはおかしいのである。もちろん己の考え方を貫き通して、殉死した人びとには賞賛が与えられることもあるが、大多数は無名のまま、忘れられていく。

 

 ストーリーとしてはスペインの田舎町、テルエル・リナスでの共和派と、彼らを分断しようとするフランコファシスト軍とのあいだで行われた、橋や飛行場を巡る攻防を描いたものである。兵器の性能や組織力で、圧倒的な優位に立つフランコ側にたいして、共和制側の劣勢はどうしようもないところまできている。

 

 敗北する自由主義者たちの散りざまを映画化する意義はなんであろうか。自由のために、ファシズムと戦ったものがいたことを示すモニュメントだろうか。どこか悲壮でした。思想の優劣ではなく、兵器の性能がすべてを左右するという厳しい現実を観客に突きつけた作品でもあります。その不条理に直面させられたマルローはどのような思いで、この作品を撮ったのだろうか。

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 またこの作品は自由のために戦った人々へのレクイエムではあるが、ただ英霊化しているわけではない。ラスト・シーンは葬式で終わるこの映画だが、スペインのために殉死したのはイタリア人・アラブ人・フランス人とすべてが外国人だったのである。かたや地元の人々が彼らに対して臨んだ態度はあまりにも他人行儀で、人任せであった。  

 

 英霊を祭るためのメンドリを出し渋る女たち、重傷兵の最後の望みであった「鏡」を分け与えなかった司令官などを出すことにより、スペイン人が民主主義を自分たちの血と汗で勝ち取ろうとはしていないこと、自由を叫びながらも、義務を放棄していたであろうスペイン人の姿勢が厳しく糾弾されているのである。

 

 この内戦で、自由主義側は敗れるべくして、敗れているのである。それを納得させるために必要だったのが、この映画であり、小説だったのだろうか。整理し切れていないままに、溢れるばかりの感情をぶつけたのが『希望』なのである。英霊埋葬シーンも見所のひとつであるが、やりきれなさも残る。後味の悪い映画です。

 

 エイゼンシュテイン作品では帝国主義は敵であり、味方は常に一枚岩である。しかしそれはあまりにも非現実的ともいえる。実際問題として、多くの人々が集まれば、立場の違いや精神性の清潔さなどにより、必ず内ゲバや足の引っ張り合いが起こるものである。

 

 そこらへんまで言及している、マルローの姿勢は潔い。命が奪われていくのは日常茶飯事であることを観客に告げるように、作品上映中のほとんどの時間に鳴り響いている機関銃の射撃音も凄まじい。

 

 予算もない中で、実写の映像と芝居(おそらく素人を大勢起用。)の映像のつながりも良い。一般人を起用することで、よりフィルムがセミ・ドキュメンタリー的な色彩を放つ。それに特撮を組み入れて展開される、橋や飛行場の爆破シーンの迫力は素晴らしく、臨場感がある。ドッグ・ファイトの激しさも見所のひとつで、お金がないながらも、最良の努力が行われている。見た目がチャチでも、努力の跡がはっきりと窺える。

総合評価 75点

希望~テルエルの山々~【字幕版】