『水の中のナイフ』(1962) 鬼才ロマン・ポランスキー監督のポーランド時代の傑作。ネタバレあり。
ポーランド時代の1962年製作のロマン・ポランスキー監督、初期の傑作として評価の高い作品です。倦怠期に入った休暇中の大使夫妻と偶然出会ったヒッチハイカーの三人のみで、一本の長編映画を作ってしまった、というたいそうシンプルな作品でもあります。 倦怠期の描き方はとりわけ優れています。
何も起こらないのに、何かが起こるかもしれないという期待感が溢れるストーリー展開とカメラワークの巧みさ、そして結局は事件を何も起こさない結末を迎えさせる監督の判断は、ハリウッドの物語至上主義に慣れてしまっていた観客にとっては、かなり挑発的だったのではないでしょうか。
まったく情報を入れることなく、無の状態で作品を見たため、最初にヒッチハイカーが大使の事をいろいろ聞きだそうとしていた時は、このヒッチハイカーが大使の暗殺を謀っている反政府のテロリストだろうかと勘繰りながら見ていました。
しかし彼は本当にヒッチハイカーでした。「ヒッチ」つながりで言うと彼こそ「マクガフィン」だ。 そして結局は事件らしい事件もなく、倦怠期に向かいつつある夫婦の人生の分かれ道にさしかかる所で作品は閉じられます。彼が自首した場合、いろいろと取調べを受けることになりますが、結局は釈放されることとなります。
このとき彼、つまり夫は誠実という美徳と共に妻からの信頼を取り戻せるかもしれません。反対に知らぬふりをして逃げ去った場合、彼には何一つ法的な災難はふりかかりませんが妻からの信用と信頼を取り戻すことは永久に出来なくなります。
彼が殺したと思っているハイカーは実際には死んでおらず、彼が取り乱してその場から妻一人を置き去りにして「湖」から逃げ出してしまったために、その後に起こった妻とハイカーの浮気を全く見ていない彼は、どちらかの選択をすることで生涯の評価を妻によって決められてしまうからです。
このような意味においてこの別れ道のラストシーンはストーリーの展開とその結末としては素晴らしい。どちらにしろ彼女から生涯、見下されて生きていかなければなりませんが。
妻にいいかっこを見せようとして、反対に最低の男として妻に評価を下されていく夫は、最後まで強がり、勝手で自己中心的な人間として描かれて、彼もそのように演技をしています。しかし細かい部分で動転しているという演技もしっかりなされています。
妻役の演技も倦怠期の夫婦のけだるさとなまめかしさが良く出ています。ヒッチハイカーの演技については彼がまず十九歳という設定であることに無理を感じますが、演技自体はしっかりしています。
狭い密室であるヨットの中と、湖により二重に閉じ込められた空間の中で、三人の密度の濃いコミュニケーションが展開されています。遠近感を非常に上手く、しかも偏執狂的に撮った主観ショットでは、自分を大きく見せて他人を小さく評価するというショットが多く用いられています。
映像として面白いのは遠近法を用いているために横になったり顔などのクロース・アップになるときにその背景に映り込んでいる二人ないし一人の人物が、異常に小さく見えるという構図が盛んに見ることが出来ます。こんなに小さなヨットの中でこれほどの「遠い」映像を撮っているのは驚きです。
そして何よりも美しく撮られているのは「水」です。最初は黒々していて不気味だった「水」が仲良く遊んでいるときにはきらきらと光り、殺伐とした雰囲気になるとまた暗くなっていく様子が登場人物の感情を表しています。
「水」は「死」の象徴でもあり、ハイカーは夫により一度葬られてまた復活します。その後の妻との不倫は「生命」であり命への「感謝」でもあります。この美しい「水」はモノクロで撮られていますが、これがもしカラーで撮られていればどのような「水」をポランスキーが撮ったのだろうと想像することはとても楽しいことです。色はどのような色だったのでしょう。
音も素晴らしく、抑制の効いたモダンジャズのビートがとても心地よく大人の雰囲気をかもし出しています。ほとんどのシーンが湖の上であり出演者は三人という最低ユニットのみなので、かなり低予算で制作された作品です。
初期の作品からでも間違いなくポランスキーの素晴らしさは存分に発揮されています。初期作品であり当時のポーランドの社会主義体制の中で発表されたという意義を考えるととてつもなく大きな作品です。そしてすでに彼は独特の映像のスタイルを持っています。構図も素晴らしく光の使い方にもセンスの良さを感じます。素晴らしく綺麗で、グロテスクな作品。
総合評価 85点
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