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他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『七人の侍』(1952) 歴代日本映画最高の活劇作品にして、黒澤時代劇の最高峰。ネタバレあり。

  黒澤明監督の1952年に公開された代表作です。制作費は通常の6倍(当時、時代劇一本の制作費の平均は二千万円強)、そして製作そのものに一年近くかかるという、当時としては異例尽くめの作品でした。全てを語りつくすことはとうてい不可能な映画であり、映画に必要な全ての要素が詰め込まれている奇跡の作品です。

 

 しかも我々は監督と同じ日本人なので、世界に通じる黒澤監督と同じ言語で、字幕なしに映画を見ることのできる喜びを味わえるのです。世界に誇る名作を、どこの言葉でもない、日本語で見ることが出来る素晴らしい機会を、日本人全員に与えて欲しいと願います。

 

 207分の上映時間があっという間に過ぎていき、気が付くとラストの田植えのシーンが来ていたという経験を何度もしている、信じられないほどの密度の濃い素晴らしさです。脚本、演技、演出、音響、環境、編集などの作品の本質にかかわる要素だけではなく、会社からの予算とその追加を勝ち取る監督とプロデューサーの戦略、製作日数の増加、当時のどんどん成長していく日本経済など必然偶然問わず、考えられる全ての要素が織り成す映画の理想形がここにあります。

 

 戦国時代に、あるひとつの農村が自衛のため侍を雇って村を守ったという言い伝えをもとに、農村が七人の侍を雇い、四十人(合戦が始まる時は三十数名)もの野盗から自分達の村を守るという物語を作り上げました。黒澤監督をはじめとする黒澤組の脚本チームが緻密に、時代考証に忠実に、しかも数多くの登場人物をダイナミックに描ききって、日本映画史上最大の、というより世界映画史上にも大きな影響力を与えた、日本映画が世界に誇る作品の設計図(脚本)が完成しました。

 

 この作品の根本のアイデアは、ジョン・フォード監督などの作り上げた西部劇かもしれません。のちのちに『荒野の七人』としてリメイクされるこの作品ですが、そうされたのは西部劇としてリメイクされやすい共通点を数多く持っていたからでしょう。流れ者が一日シェリフになって、悪党どもやインディアンを退治するなどという構造と基本的に変わりはありません。

 

 実際に、この作品はのちにリメイクされて『荒野の七人』として西部劇に生まれ変わりました。比較してみると良く解ることですが、かなり人物への掘り下げ方が甘く、守るべき町も要害ではなく、ただのガン・ファイトになってしまっています。

 

 スター俳優自体の魅力で見せてしまっていて、個人的には不満の残る作品でした。ただし興味深かったのは、町の人々が荒くれ者と七人の力関係の変化により、日和見して寝返るところで、本家の『七人の侍』ではそういう部分は描かれませんでしたが、現実的に見た時に、こういうこともありそうなことだと思いました。

 

 本家の『七人の侍』では、侍たちをはじめとする主な登場人物だけでなく、農民などの性格描写や設定までも細かく丁寧に作りこまれていて、観客が感情移入できるキャラクターを、少なくとも二十人近く作り出すことに成功しています。唯一の弱点は、野盗側のキャラクターが首領以外はあまり伝わってこないことです。

 

 それでも侍は勿論のこと、農民、あぶれ者などまで活き活きと描かれているのは驚異的です。キャラクターの存在感がしっかりと描ききれているのは、脚本チーム(黒澤・橋本忍小国英雄)が優れていることの証明です。

 

 あくまでも侍と農民の視点から撮られた作品ですので、観客の視点を混乱させること無く、一気に見せていくには、野盗側の視点や、彼らに感情移入を許すようなシークエンスと台詞は必要の無いものだったのかもしれません。彼らは西部劇のインディアンと同じで、あくまでも粉砕されるべき憎くて恐ろしい敵でしかないのです。感情移入は無用であるという脚本の判断でしょう。

 

 この作品を見ていて、演出において特に優れていると思われるのは、何気なく劇中での必要性から示される、志村喬の見る村の地図です。七人の配置と村の全方位と主要な要害、そして戦いが始まってから、一つ一つ消し去られていく丸印で示された野盗の数がとても分かりやすい。作品を見ていく時に、観客の混乱を避けるのに大きく貢献していて親切でした。

 

 画期的な演出は戦略・戦闘シーンに見ることが出来ます。一連の戦いのシークエンスをただのチャンバラにせずに、戦争(戦略)と戦闘(戦術)をきちんと描き分けています。弱い者がどのようにして勝利を掴めば良いのかという戦術をはっきりと示すことにより、一層の現実性を持たせて観客の注意を強烈に引きつけ、集中と緊張を高めていきます。

 

 戦術的に見ても、大変優れているものに思えました。四方八方をただ固めるだけでなく、奇襲、誘導、各個撃破、民兵教育、情報将校の選出、作戦立案、地形の利用など軍事的に見ても興味深いものではないでしょうか。

 

 技術的な意味で画期的だったことには、マルチ・カメラによる撮影を挙げておきます。特に一回きりのぶっつけ撮影で、撮り直しのきかない最後の雨中での合戦場面では、この撮影方法は絶大な効果を発揮しました。あちこちからカメラが狙っているために、カットが入る最後まで誰もどの場所にいても気が抜けません。

 

 総ての出演者及びスタッフは、複数のカメラの「目」に見続けられているため、通常よりも更に緊張感が持続したのは勿論のこと、ワン・シーン・ワン・カットを基本にして同じ時間での一斉撮影を実行したために、編集時にフィルムを何処から繋いでも時間や呼吸のずれが無く、カメラを意識しない自然な表情をも同時にフィルムに焼き付けることに成功しました。仕方なしに回した多くのカメラでしたが、のちのちの黒澤監督の代名詞にもなるマルチ・カメラ撮影のきっかけともなりました。

 

  次に、演技について述べていく前に、個人的に非常に興味がある疑問がひとつあります。それは何故この作品に京マチコが出ていないのかということです。『羅生門』の俳優陣の中で、この作品以外の黒澤作品にただのひとつも出演していないのは彼女だけなのです。

 

 溝口監督の『雨月物語』に出演するなどして、今で言う国際女優の仲間入りをしていた彼女が、一本もその後の作品に出演していないのは不可解です。

 

 黒澤監督は三船敏郎志村喬森雅之、上田吉二朗、本間文子加東大介、そして千秋実というその他の出演者の全てをその後も何度でも使い続けたのに何故、彼女だけは使わなかったのでしょう。演技が既に固まってしまっていて、融通が利かなかったのでしょうか。それとも大映が彼女の出演を渋ったのか。今でも分からない謎です。

 

 それはさておきこの作品は、三船敏郎の魅力が思う存分に発揮された一大スペクタクル作品です。彼が見せる刻一刻と変わっていく表情と常に発散されている感情は、まさに観客が彼と一体となって作品にのめりこんでいくきっかけであり、彼への感情移入が出来なかったならば、残念ながら、この作品の楽しみの半分以上は失ってしまったも同然です。

 

 この作品のみならず、黒澤監督作品にのめりこめない方はひょっとすると三船敏郎その人のキャラクターに違和感を持つためかもしれません。それほどの凄まじいエネルギーと真剣さを感じ取ることが出来る入魂の一作です。魅力的なキャラクターを、大勢作り上げたこの作品の中でも、三船敏郎演ずる菊千代の魅力は群を抜いています。   

 

 また志村喬宮口精二の演じた、2人の侍は凡庸の作品では決してまねの出来ない描き方をしていました。若くも色男でもない2人が、この作品で見せる男振りは圧倒的で比類なきものです。志村喬には今回、最初から最後まで見せ場が用意されていて、黒澤監督の彼への信頼が伝わってきます。

 

 『生きる』は確かに志村喬の代表作品ではありますが、この作品での彼の落ち着いた人格者・指揮官の演技もまた、彼の個性を発揮する素晴らしい出来であり、日本映画史に残る名演技でした。

 

 侍としての孤高を演じた宮口精二は、ある意味で一般の人が思い描くであろう侍、剣客のイメージを体現するキャラクターとして登場します。日本人好みの不言実行の侍。観客が自分を侍に重ね合わせる時に、最もこうなりたいと思わせるキャラクターだったのではないか。

 

 何も言わずとも仕事をやり遂げる職人気質はまさに日本人が惹かれる性質です。「個」としての最高の資質を持っていた侍を体現していた彼が、皮肉にも科学の力である「種子島」で殺されてしまうのはやりきれない結末でした。

 

 侍では、津島とのラブシ-ンなど見せ場のある情報将校を務める若侍を演じた木村功(黒澤作品での木村の登場シーンは、何故か花に埋もれるシーンが多いのは偶然か。)、緊張感溢れる作品の息抜きを務めるユーモラスな侍を演じた千秋実、素朴で実直な副官役を演じた稲葉義男、そして爽やかに貴重なバイプレーヤーを演じきった「ずん胴」で胴長短足の「日本人」加東大介の、各侍達が見せる個性の違いを存分に味わって欲しい。

 

 侍ばかりがクローズ・アップされることの多いこの作品です。しかし忘れてはならないのは格好良くは無いが、作品の土台を支えた農民を演じた俳優たちです。土屋嘉男、高堂国典、左卜全藤原釜足、小杉義男、そして津島恵子。彼らの素晴らしい演技があってこそ、始めて作品の奥行きが広がり、深さが増します。

 

 侍の見た目の良さが目立つあまり、あまり注目されることも無い農民達を演じた俳優達こそが、この作品の最も大事な演技者なのです。主役は農民であって、侍は彼らの土地を守るために雇われたに過ぎません。

 

 不思議な事が一点あります。ここで描かれるのは農民、浪人武士、そして野武士です。本来の権力層である、領主や代官が全く出てきません。あくまでもこの戦闘に焦点を絞ったからなのか、それとも当時から、権力は弱者などには全く構わない、助けてもくれないということを表したためなのか。

 

 謎です。これは社会のはみ出し者である野武士と浪人、そして弱者である農民の生き残りをかけた死闘を描いた映画です。

 

 音響の効果も素晴らしい作品です。地鳴りのようなオープニング・テーマ、それを受ける苦痛に満ちたうめき声のような男性のハミング、水車小屋での水音と杵を打つ音。一連の音のつながりは苦痛の連続です。

 

 この苦しみを打ち砕くために雇われる侍たちには、明るく勇壮なテーマが用意されています。いざ野武士と戦う戦場、つまり村に着いた時には、農民のテーマと侍のテーマが同時に演奏されています。協力して戦うことが音でも語られています。

 

 その他ではファンファーレの使い方が絶妙であり、後々には『天国と地獄』、『夢』でも効果的に使われます。

 

 セットやロケを含めた環境の作りこみの徹底振り、衣装の独創性も見逃せない見所のひとつです。一箇所に見える「村」も、実は数箇所で撮られています。その移動や天候待ち、そして凝りに凝ったセットや小道具、そして待機させる俳優やスタッフのために莫大な予算が掛かり、通常の作品の6倍もの制作費がつぎ込まれました。

 

 まさにこの作品は、黒澤監督と彼の腕利きの黒澤組と呼ばれたスタッフ達の持てる技術と工夫の総てを集中してつぎ込んだ、日本映画の『イントレランス』だったのです。米一粒のアップがこうも美しい作品、柱や板の木目がこれほど美しい作品を他に知りません。

 

 これら環境面での徹底した追求姿勢は、作品のグレードを何段も引き上げています。映りこむ小道具、衣装、カツラのひとつずつが一体となり、映画的「現実」を作り上げ、まるでこの時代にタイムスリップして、現実を切り取ってきたかのような錯覚を覚えるほどのリアリズム溢れる映像が全篇に貫かれています。

 

 環境のみならず、戦闘シーンの現実味(刀を何本も地面に刺しておき、折れたら取り替えるという発想は、歌舞伎から来る殺陣を何のためらいも無く、ずっとやってきた当時の常識からはかけ離れていたことでしょう)は、作品に厳しさと信用を与えています。

 

 『荒木又右ヱ門 決闘鍵屋の辻』で既に実験していたリアルな時代劇の完成形を見ることが出来ます。あの作品ではリアルになりすぎて、かっこ悪かった部分はここでは上手く修正されていて、映画的リアリズムに基づいた演出がなされています。

 

 しかし、撮影の遅れと、あまりにも強すぎる黒澤監督の作品へのこだわりに、業を煮やした東宝は、後々には黒澤側にも製作責任とリスクを分散させるべく、黒澤プロ設立を迫るようになります。三船にも三船プロを作らせることになりますが、各々が会社を立ち上げてしまったために身動きが取れなくなり、『赤ひげ』以降でついに交わることなく終わってしまったのは日本映画界の損失です。

 

 演出、演技、脚本、音楽、環境などの作品の品質を高めるためになされたスタッフ全員の極限までの忍耐と努力、度重なる会社からのクレームに対しても折れることの無かった黒澤監督の鉄の意志、そしてあまりにも膨大に超過していく予算金額と撮影日程の遅延にもかかわらず、とにかくも撮り終えるまで待った東宝の忍耐があってこそ、はじめてこの超大作である映画は完成しました。

 

 そして大ヒットしたのみならず、二十年以上経ってからリバイバル上映されても、多くの観衆を集めるほど、全国の映画ファンの心に焼きついてはなれない永遠の一本として今も愛され続けています。

総合評価 100点

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