良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『惑星ソラリス』(1972)意識を持つ「水」は、人を映し、思い出を蘇らせる「鏡」である。

 1972年に、当時まだソビエト連邦だった頃のロシア映画界において、アンドレイ・タルコフスキー監督が放った、最大の傑作です。しかしあえて言いたい事がひとつあります。「SF」の代表作? ロシア映画の金字塔?ごちゃごちゃ言わずに、タルコフスキー監督のモチーフのひとつでもある、あの美しく、素晴らしい「水(water)」の映像描写に感動しませんか?あのように美しい水の描写を、なかなか他の監督では見る事が少ないのです。

 

 最初に見たときは、「なんか安っぽい照明だなあ。」とか「地味だなあ」とか、あまり良い印象はなかったのですが、何日たっても、何年たっても記憶に残っている、あの美しくも悩ましい、象徴的な「水」の描写の数々.....。

 

 そして地味に思えた宇宙ステーションのセットにしても、機能性だけを追及しただけの研究設備の中で、果たしてデザインなど必要なのだろうか。まあ、もっとも切実だったのは、製作予算の事だったのかもしれませんが。

 

 そう思い当たると、造形的なかっこよさよりも、人間のリアリズムを採った、タルコフスキー監督の判断は正しかったのではないか。出来ないものはわざわざやらない方がよい。それも選択肢なのです。恥をかくよりましだ。何かと比較される『2001年 宇宙の旅』で出てくる機材に比べると、スタイリッシュさでは全くかないませんが、どちらもSFの名作である事に変わりはありません。  

 

 1990年に黒澤明監督が『夢』を公開した時に、最後のエピソードである『水車のある村』での小川のせせらぎのシーンで、まさにこの作品での「水」の描写へのオマージュが、黒澤監督からタルコフスキー監督に捧げられた時にはたいそう感動したものです。

 

 実際に、黒澤監督の選ぶ「映画百選」にもしっかりと入っていて、「水」についてもコメントされていました。また、この『ソラリス』で、未来都市のシーンの一部として撮影された、わが国の首都高速の映像が出てきた時は、隔世の感があります。当時の黒澤邸もその辺にあったそうです。

 

 何はともあれ「意志を持つ水」という設定と、その映像の不気味な美しさといったら他に類を見ないものです。ポーランド生まれのSF作家、スタニスワフ・レムの原作『ソラリスの陽のもとで』とは一味違う展開を見せるタルコフスキー監督製作の映画ではありますが、レムの原作の持つエッセンスを十分に咀嚼して、タルコフスキーの『ソラリス』として完成されています。

 

 「雨」、「沼」、「海」、「霧」と水に関係するシーンでの、映像へのこだわりが十二分に感じられます。愛情を通り越して執着と言っても差し支えありません。残念だった点としては、技術的に問題が多かったためだとは思うのですが、巨大な赤ん坊や巨大庭園など、いわゆる「バートン」のシークエンスがほとんどすべて台詞で済まされてしまった事、「ソラリス」の歴史について、映画では簡単にしか触れられなかった事などを挙げておきます。三時間弱という長い上映時間があったわけですから、その時間そのものが「歴史」であるとも言えるかも知れません。

 

 構成そのものを見ていくと、まず原作では全く描かれる事のなかった地球でのオープニング・シークエンスから始まり、それが延々と40分以上続いていきます。このシーンは映像としては、とても美しいものであり、タルコフスキー監督らしい映像美が満載なのですが、スピーディーに、というよりもいきなりプロメテウス号での宇宙への出発場面から始まる原作の読者及び作者であるレムからすると、タルコフスキー監督の自己満足と思われかねない、この地球場面が一番必要ないものだったのでしょう。

 

 ファンには嬉しいのですが、どちらかしか知らない人のほうが多いでしょうから難しい。個人的にはどちらもそれぞれ良い出来だと思います。以前にも書きましたが、映画と小説は違うジャンルであり、どちらにも表現しやすいところと、表現しにくいものがあるので、どちらが優れているとは一言では言いにくいのです。

 

 機能していない映像の一つに、未来都市の映像、つまり東京の首都高の映像を挙げておきます。日本人としてあれを喜ぶべきかどうか、非常に疑わしいのです。なぜなら、あのごみごみした映像が、それまでの美しい「水」の多い自宅風景との対を成す風景として使っているのか、近未来都市のモデル・ケースとして使っているのかで、意味がまるで違ってくるのです。

 

 『ブレード・ランナー』で使われた日本語の看板はとても象徴的で、いかがわしさや異化効果を十分に上げていたと思うのですが、ここでの都市は中途半端でしかない。背景でかかる抽象音楽、もしくはノイズの出来が素晴らしかっただけに、この近未来映像にもう少し予算をかけるか、でなければカットして欲しかった。

 

 難点はフィルムそのものの質です。ソ連国営映画会社である、モス・フィルムで撮られているためか、当時の西側の映画に比べると、フィルムの色そのものが退色しているように見え、それはそれで、独特な味があるのですが、果たしてこのがタルコフスキー監督が表現したかった色だったのかどうかは疑問です。

 

 特に、この作品での主役である「海」が変化していく映像は、原作で豊かに表現されていた色彩とは程遠い出来といわざるを得ません。当時の技術水準の中では、十分神秘的な映像ではあるのですが、タルコフスキー監督が現在のコンピューター技術を持ち、撮影していたならば、どれほどのものが出来上がったのだろうと思うと、とても残念ではあります。

 

 原作者レム自身は、このタルコフスキー監督作品、最近のソダーバーグ作品も両方ともまったくお気に召さないようですが、どちらが原作の本質に近づいているかといえば、明らかでしょう。キャメロン製作、ソダーバーグ監督のは、かなり酷く、わざわざあの程度の作品に『ソラリス』の名前をつける価値があるのかすら疑わしい。見る価値はありませんし、あれをもって『ソラリス』だと思われてしまうと、原作の読者、そしてタルコフスキー監督作品を見たものとしては、全く心外です。

 

 SF映画『ターミネーター』で、ハリウッドの大立者の一人に、のし上がったキャメロンが、原作の『ソラリスの陽のもとで』を知らないはずは無いので、何故このような内容しか持たない出来栄えの物に、栄光の名前を名乗らせたのか。辱める為かとしか思えない。少々脱線しました。

 

 意識を持つ「水」は、人を映し出し、彼の思い出を蘇らせる「鏡」である。タルコフスキー監督のモチーフである、「鏡」、「水」、「ノスタルジー」が三つ全て出てくるこの作品は、まさに彼の代表作であると思います。彼自身がどう言っているかは知りませんが、ファンとしてこれを見ると「彼らしいなあ」と、妙に納得してしまう作品です。

 

 「ソラリス」の海は『意志を持つプラズマの海』であり、この海は、あるひとりの人間が最も欲する、または愛して止まない人物を、そのひとの潜在意識の中に浸入(生物なので、本来なら侵入かもしれませんが、「水」なので、あえて浸入としています。)してから、コピーを作り出して、彼に与えます。必ず、一人につき、一人だけ与えるのです。

 

 それは死んでしまった恋人であり、別れた妻であり、生き別れた、もしくは幼くして亡くなってしまった子供であります。最も深い潜在意識のなかへ自由に浸入するソラリスの意識は真の恐怖と混乱を人々に与え、徐々に潜在意識から人間を支配します。

 

 潜在意識の底で眠る、または押さえ込んでいる、欲望や希望を具現化されて、与えられれば、どんな人でも最初はその非現実性に、恐怖と違和感があったとしても、最終的には完全に支配されてしまう。「海」は「鏡」なのです。思い出を基にして、コピー人間を作り出す。宇宙を地球的常識で考えると、この作品にはついていけません。

 

 宇宙開発、宇宙研究は地球での自然科学の研究とは全く違うのです。レム自身による解説がついた、作品自体のテーマとモチーフについては、小説の作者あとがきに詳しく書かれていますので、興味のある方は読んでみてください。

 

 人間の意識や心の奥底まで浸入して、人間を虜にしてしまう「水」のしなやかさと流動性の恐ろしさは、美しい映像とのギャップでより引き立っています。原作との違いが特にラストシーンで見られますが、作品世界を壊しているとは思えません。十分に、観客に対して、問題を提示して終わりを告げます。ひとは真正面から、自分の深層意識と向き合えるのか。見失いそうになった時に、自分を取り戻す意志の力が自分には備わっているのか。

 

 映画のラスト・シーンは、むしろ原作よりも衝撃的な結末となっており、2時間50分という上映時間を「ソラリス」とともに過ごした方のみが知るべきでしょう。

 

総合評価 92点

 

原作 惑星ソラリス

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