良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『風の谷のナウシカ』(1984)<パート1>宮崎駿監督の代表作。細部へのこだわりは凄まじい。

 宮崎駿第二回監督作品であり、その後の作品群に与えた影響と衝撃は計り知れないほど大きなものがあります。シリアス路線の先駆けであり、革命といっても良いほど素晴らしい出来栄えを誇り、そのクオリティの高さはいまでも他の追随を許さない。

 

 「腐海」という汚染されてしまった地表の、いわば地獄の奥底には天界のような新しい、そして美しい世界が形成されつつある。毒気に満ちた腐海が人間世界を飲み込んで滅亡させた後に地の底から新しい世界が顔を出すという発想は凡人には出てこない。遠回しに環境に適合できない人類は駆逐される運命にあることが明らかにされる。

 

 過去の遺物である「巨神兵」の化石が何度もアップや背景に現れ、最終戦争「火の七日間」がこの世界にもたらした終末戦争後の未来の様子を我々に示す。世界のほとんどは汚染された腐海に呑まれ、残った人間達はいまだに戦闘を続けている。究極のテクノロジーに集積だったはずの巨神兵の化石は確実にやってくる人類の終末を暗示させる。

 

 科学でのし上がった人類は科学とともに滅びてゆくのは大変な皮肉ではあるが、最大の武器が最大の障害になるのは生態系が変化していく際のルールなのかもしれません。

 

 超人ナウシカの活躍ばかりをクローズ・アップしていてはこの作品はただのヒーロー物になってしまう。反面、環境問題や反核思想に囚われすぎるとこの作品自体の持つ、素晴らしいクオリティの高さを見逃してしまう。

 

 まず第一にこの物語は核戦争後の世界であるとは作者も登場人物も言ってはいない。腐海に住む王蟲(オーム)などの虫たちが核汚染されているのであれば、いくら巨神兵で彼らを焼き払ったところで腐海を征服しても意味はない。

 

 反核思想を持つ人々に利用されたというのが正解ではないだろうか。ただ環境問題を考えるよいきっかけになったのも事実であろう。教材として使われることもあったようですし、冒頭には世界野生動物基金(WWF)の推薦ロゴも出てきます。

 

 ナウシカを崇めたてる展開には一種の恐怖を感じさせる部分もあります。何千匹ものを王蟲相手にたった一人の純粋な思いだけで対峙し、一度死んでから再び復活するというのはキリスト復活を思わせる。

 

 殉教者の聖なる血によってこの世が救われるという安易さを内包しています。一人の活躍で世界を救うというのはかなり無理がある進め方だと思います。あまり気にならなかったのは圧倒的な迫力と素早いモンタージュで考える暇を与えなかった編集の勝利でしょう。

 

 「その者青き衣を身に纏いて黄金の野に降り立つべし」の予言を前もって序盤に触れておき、それをクライマックスに持ってくる脚本はストーリー展開としては最高ではあります。の大暴走と巨神兵の復活から続く一連の流れの中では英雄ナウシカの殉死と復活は必要不可欠な落としどころではあります。

 

 彼女はキリストであり、ジャンヌダルクでもあります。この作品では三人のお姫様が登場します。一人はもちろん主人公ナウシカ、もう一人はトルメキア王姫クシャナ、そしてペジテ皇女ラステルです。

 

 序盤ですぐに死亡するラステルは別にして、ナウシカクシャナは王女の光と陰を体現している。過酷な運命が来るべき未来に降る注ぐのは両者とも同じである。戦闘で腕と片足を奪われたクシャナ、毒性のある腐海の空気を肺まで吸い込んだナウシカともに死に行く運命にある。

 

 超人思想、世紀末的世界観、ハイデッガー的「先駆的了解」と「企投」と一歩間違えると限りなくナチズムに近づく危険性も孕んでいるように感じるのは考えすぎだろうか。

 

 人類は究極的局面では自分たちのことしか考えないというのもペジテの政治家やクシャナに対面する時のナウシカとのやり取りから推察できる。市民達の逃げ惑う様子が描かれていることで好意的に映されるペジテ市民は難民であるが、トルメキアに王蟲をけしかけるゲリラでもある。また平和そのものの生活を営んでいた風の谷にしても兵器の備えはきちんとしてある。

 

 つまり善と悪などという小さな人間の価値観でこの作品を判断してはならない。相手は生態系と環境であり、惑星そのものの環境が人類に「NO!」を突きつけた場合、その表面で生活している生物の中で適応できないものは滅びるしかない。

 

 小さな視点の下、くだらない戦闘を繰り返すトルメキア、ペジテとも「世界を人間の手に取り返すため」というスローガンを掲げているのは皮肉である。風の谷にせよ、一国だけの平和がいつまでも続くと考えるのは無理がある。住処を失った難民達は住める場所を求めて凶悪化し、やがて風の谷に押し寄せてくるであろう。じっくりと考えながら見ていくと、どんどん憂鬱になってくる作品でもあります。

 

 さて次はメカニックや造形について述べていきます。あいかわらずの飛行機マニアの宮崎監督らしいメーヴェ、トルメキアの巨大飛行艇、ペジテのガンシップなどの飛行シーンや空中戦での描写のこだわりには嬉しくなってきます。メーヴェに乗り込んで、起動させ、滑空後に飛翔していく一連の流れは彼らしさが溢れています。

 

 トルメキア船を襲うアスベルの戦闘機の特攻と撃墜されていくトルメキア船のカットでの速さと大きさの対比、空から降臨してくるユパの圧倒的な強さなどは何度見ても飽きがこない。

 

 またなんといってもこの作品で素晴らしいのは腐海のデザインと生物たちの異常に細かい描写である。昆虫は手足が多く、複雑な動きを伴う生物なのでセルで描くのは相当な苦労があったであろうと思われる。しかも一匹だけではなく、あれだけの数量を動かそうと思えば、一体どれだけの期間と打ち合わせが行われたのであろうか。

 

 植物も難しかったであろう。一人で描ききれるような数量ではないので、どうしても共同作業になってくるが、微妙な色彩や動きのずれなどはどうやって調整したのであろうか、など興味は尽きない。よくもまあ、あれだけ複雑な形を徹底して描きこんだものです。

 

 胞子など菌類の描き方と色調の美しさも印象に残っている。カビなのに「美しい」というのはおかしな例えだろうが、王蟲の抜け殻の透明感といい、日頃忌み嫌われることの多い昆虫や菌類を魅力的に描いたのは発想の転換かもしれない。

 

 王蟲のデザインと設定そのものは『砂の惑星 デューン』に登場するサンド・ウォームを参考にしたのは明らかであるが、ゴジラ・ファンとしてはモスラに見えなくもない。あのフォルムはいかにも異形ではあるが、どこか懐かしさと魅力を感じる。どことなくぎこちない動きはストップ・モーション・アニメーションでのフリッカーを思わせるのが懐かしさの原因だろうか。

 

 懐かしさという点で言えば、トルメキアの装甲兵の甲冑のデザインはモンタージュ理論で有名なセルゲイ・エイゼンシュテイン監督作品『アレクサンドル・ネフスキー』に酷似している。前作の『ルパン三世 カリオストロの城』でも彼の作品『イワン雷帝』を思わせるショットがありましたが、宮崎監督は間違いなくエイゼンシュテイン監督作品を観ていますね。

 

 <パート2に続く。>