良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『地獄の黙示録』(1979)パート2 暗殺指令遂行のためカンボジアに向かったウィラードは何を思う?

 なんやかんや言いながら、今回の記事を書くに当たって、オリジナル版の『地獄の黙示録』(1979)を2回見て、『地獄の黙示録特別編』(2001)を1回見て、コッポラの妻が撮ったドキュメンタリー『ハート・オブ・ダークネス』(1991)を押入れから引っ張り出し、脚本家ジョン・ミリアスが本作品の着想を得た、そもそもの出発点であるジョセフ・コンラッドの『闇の奥』を読み返していくという作業からスタートしました。

 

 映画の原案となった『闇の奥』を読み返すことがまず第一になりましたが、これは学生時代に読んだきりなので、いつのまにか紛失していました。

 

 さいわい岩波文庫の改訂版が廉価で購入出来ましたので、さっそく二十年振りに読んでいきました。表面上は冒険小説、それも海洋小説物というジャンルのひとつなのでしょうが、より人物の内面を重視していて、難解ではありますが、意識の深い部分をより抉っていく描き方でした。

 

 この小説を読めば、映画に配置されているシークエンスの骨格の多くが『闇の奥』から採られていたことをすぐに理解できるでしょう。次に昔のビデオを取り出し、1979年のオリジナル版を見て、最後に2001年の特別編を見ました。

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 オリジナル版がカンヌで最初に上映されたときは6時間以上だったとのことでしたが、それで思い出したのはエーリッヒ・フォン・シュトロハイム監督の最高傑作『グリード』でした。

 

 あの映画は映画会社に出来上がりのフィルムを切り刻まれて、溶かされてしまい、2時間物になってしまったために、かなり内容的に分かり難くなったのと同じで、本来はもっと分かり易かったのだろうか。しかしながら、特別編を観たときに受けた印象はあまり芳しくはありませんでした。まあ、結局のところ、今回の記事を書くために3回ほど見たことになります。

 

 前回はプレイメイト登場から混乱の中、ヘリコプターの爆音と共に去っていくシークエンスまでで終わりましたが、今回はラストのエンディングまでとなります。その前にこの映画『地獄の黙示録』にまつわる伝説的なエピソードについて、忘れてしまいそうな記憶を辿り、書いてみようと思います。

 

 まずはなんといってもワルキューレの勇壮な音楽に乗って、北軍が篭る海岸線一帯にナパームを投下する場面について。何が凄いといって、じつはこのシーンにはテイク1があるということなのです。つまり一回目のナパームの燃え方がイメージと違っていたために、コッポラが「カット!撮り直し!」と叫んだというのです。つまりぼくらが映画で見ているのはテイク2以降なのだというのには驚きを通り越して呆れてしまいました。

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 こういう浪費とも思える撮影をする監督といえば、海外ならばエーリッヒ・フォン・シュトロハイムD・W・グリフィス、日本ならば『七人の侍』撮影時の黒澤明監督を思い出しますが、コッポラが撮影していたのは70年代後半であり、映画黎明期の伝説ではなく、まだほんの30年前のことなのです。

 

 この頃はたしかに大作主義がにわかに復活していた時代でもあり、前年にはマイケル・チミノが『ディア・ハンター』が公開され、1979年には同じくマイケル・チミノが『天国の門』を発表し、ユナイテッド・アーチストを破産に追い込みました。パラマウントも危機感を持っていたことでしょう。

 

 そのほかにこの年に公開された映画には『エイリアン』『クレイマー、クレイマー』『ノスフェラトゥ』『ブリキの太鼓』『マッド・マックス』などがあり、『ノスフェラトゥ』以外は劇場に連れて行ってもらいました。みんな思い出に残る映画です。そのなかでもこの『地獄の黙示録』の特異さは尋常ではありませんでした。

 

 次に覚えているのはぼくが好きな作家の一人、村上龍がエッセイで語っていたエピソードです。彼のエッセイにはコッポラは幾度が登場するのですが、そのうちのひとつが『地獄の黙示録』にまつわるもので、それは川でのシーンなのです。コッポラは撮影を開始しても、気に入らなかったら、さまざまな寄生虫がうようよいる川の中に飛び込んで、「カット!違う!撮り直しだ!」とやってしまったそうです。

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 監督である彼がいわば映画監督の狂気を全面に押し出したことが奇跡的に幸いし、彼の気迫というか狂気がフィルムにも定着し、不動の問題作として、どす黒い光を放ち続けているのだろうか。

 

 あと覚えているのは撮影期間の長さで、もともとはフィリピンで三ヶ月強の撮影予定だったはずが、いざ始めてみると、マーティン・シーンの心臓発作による撮影中断やマーロン・ブランドの最低のフィジカル・コンディション、気候の問題など困難の連続が積み重なり、主要場面を撮り終える頃には8ヶ月かかってしまったそうです。

 

 当時もあまりのトラブル続きのため、コッポラは破産したとか色々と噂になっていましたし、ぼくはまだ小学生だったが、この噂は知っていました。まあ、三ヶ月が八ヶ月では予算が持たなくなるのは明らかですし、持ち出しも増えてくるのは仕方のないことでしょう。

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 そんなこんなを思い出しましたが、そろそろ本題に入っていきます。  前半部分ではひとりの狂人が圧倒的なインパクトを観客に残しました。彼の名はキルゴア中佐。ロバート・デュヴァルが演じた職業軍人で、彼の狂気は陽性のもので、彼の台詞や行動の中には狂気に満ちてはいるもののコミカルさがあり、大学の体育会系のやりすぎのノリのよさがありました。

 

 しかしこれからの後半に登場する、物語の核心である、もう一人の狂人はじっとりと陰性で、つねに切迫して緊張感のある台詞を吐き、精神状態を表すような残虐な行動が多い。同じアメリカ軍人の将校であるにもかかわらず、陸地に降りてしまった彼、つまりカーツ大佐はその狂気に絡め取られてしまった。

 

 が、キルゴアは常に上空にいて、着陸しても内陸の湿地帯に降りなかったために、先ほども指摘しましたようにゲーム感覚で敵を大量に殺傷するアメリカ人の視点を持ち続けることが出来たのかもしれない。

 

 それにつけ、ある疑問が思い浮かびます。なぜアメリカ軍は遠い見ず知らずの異国で戦い続けなければならないのであろうか。当たり前に思っている人々が世界中に大勢いるが、別にそれが明確に世界憲章などで決まっているわけでもないし、国連憲章アメリカ軍が世界の秩序を守るために戦うと記されているわけでもない。

 

 上層部にしたら、戦争を行うことで物資や大勢の人間が動き、ビジネスチャンスが広がるだろうし、石油メジャーや武器メジャーといった死の商人たちの懐が暖まり、国内の不満を押さえつけられるというメリットもあったのでしょうが、それはいづれ損した分も回収できるという前提があるからであり、そこらが崩れてしまうと派兵する意味自体がなくなってくる。いま米軍が抱えているのはそのへんなのだろうか。

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 まあ、上層部にはそういう判断もあるでしょうが、下級軍人にはなんのメリットもない。第二次大戦時と違い、帰還しても戦場の英雄と崇められることもなく、ただ戦争の後遺症と就職難という現実を突きつけられるだけになってしまっている。そんな彼らが戦地で非常識な行動を取ったり、薬物に奔るのも仕方ない部分があるのではなかろうか。

 

 順を追っていきます。プレイメイトたちを見送ったあと、彼らは川をさかのぼって、カンボジアへ向かって行きます。彼らがさかのぼっていく道程は精神面が徐々に異常をきたしてゆく過程となります。場面を順に見ていくと、まずは河川上の簡易検問を実施するかしないかで指揮官マーティンと部下であるはずのチーフ(船長)が揉めるくだりがあります。

 

 任務の重要性で判断する指揮官マーティンは時間の浪費を嫌うが、小さな意地を通そうとしたチーフは取るに足らないルーティン・ワークにこだわり、もしかすると殺されるかもしれないという恐怖から、小心者の兵隊たちが発砲し、結果として無駄な無慈悲な犠牲を出してしまう。このエピソードが示すのは恐怖がもたらす判断力の低下を観客に示している。

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 次にサーフィン・チャンピオンのランスは敵中での極秘任務であることすら忘れ、信号となるカラフルな発煙筒を焚き、「パープル・ヘイズだ!」と大はしゃぎしてしまい、結果として仲間の黒人兵を死に追いやる。

 

 しかもこのとき彼は自分の過失で同僚を死なせたのに、飼っていた子犬のほうに気をとられている。人種差別や動物愛護のバランスの異常がよく出ていたシーンでした。これはキルゴアの爆撃しながら子どもを病院に送る矛盾と対をなしているように思える。

 

 これは感覚がかなり麻痺してきている状況を表す。異民族が異文化のなかで生きている様子を理解できないことが未知への恐怖を生み出し、それに耐えられなくなった者はある者は薬物に走り、ある者はより残虐になることで我が身を守る。

 

 どちらにせよ、感覚がどんどん麻痺していくことに変わりはない。ついにカーツの王国に辿り着く頃にはすっかり平常の感覚が消え去り、研ぎ澄まされた異常性しかない。何の迷いもなく、地獄門のような王国の入り口に着岸するあたり、すでに平常の感覚は失われている。

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 そもそも軍から出た指令からして異常である。敵中を突破して、味方を殺害しに異国のジャングルの奥地に行くのは理解の範疇を超えている。

 

 カーツ、つまりマーロン・ブランドがいよいよ登場してきますが、彼のコンディションは最悪で、いっさいのアクション・シーンを撮れる状態ではなかったそうです。当初は北ベトナム軍とアメリカ軍に挟み撃ちにされようとしているところをマーロンとマーティンの指揮する部隊が彼らに応戦するという戦闘シーンをクライマックスに持ってくる予定だったそうです。

 

 しかしながら、そういったシーンを撮れなくなったための妥協点として今ある形に落ち着きました。結果的にはこれが奇跡的にグダグダになりつつも、戦争の混沌と不条理を表してくれました。

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 会話シーンの照明は秀逸で、普通の尺度で計り知れないマーロンはほとんど表情が写らず、『ゴッドファーザー』の冒頭のコルレオーネの拳のように一部分や半分だけが不気味に映し出される。

 

 光と影の使い方やカットの繋ぎ方で監督や編集のセンスを知ることが出来ますが、この映画には際立った映像の強さと編集の妙を堪能する場面が多い。

 

 オープニングのヘリコプターの旋回からオーバー・ラップして、主人公が寝ているベッドの天井の扇風機にシーンを繋いでいくやり方はエイゼンシュテインが彼の作品で多用していたもので、彼は繋ぎに近似の図形を用いて、見やすく場面転換をしていくやり方をしていましたが、今回のコッポラの繋ぎは彼のやり方を彷彿とさせてくれました。

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 また光と影に関してはカーツとの対面シーンが印象的で、淡いオレンジ色に染まっているマーロン・ブランドの表情を大きな影で隠して、容易に窺いにくくすることで、観客を不安な気持ちにさせていく。

 

 コッポラ監督作品ではオレンジ色を印象的に取り入れているシーンが幾つかありまして、この『地獄の黙示録』ではワルキューレの場面の朝焼けをバックに攻め込んで行く場面でのオレンジ色の美しさは大画面で観たときは圧巻でした。

 

 もうひとつはクライマックスへと繋がる対話と祭礼シーンでした。この映画以外では『ペギー・スーの結婚』での夕暮れの美しさも記憶にあります。コッポラの作品の中では地味な方ではありますが、彼の映像感覚はそういう小品にも息づいています。

 

 しかし難解な作品ではあります。殺害しに来る者をずっと待ち続けていたという台詞は形通りに取ってよいのか、そうではないのかに迷う。マーティンの前に同じ任務についたコルビーが精神異常をきたし、カーツの部下として行動しているわけですから、どこまでが本音でどこからが真実なのかが霧に包まれたようにも見える。

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 こうしてカーツとマーティンの対面シーンがきますが、両者の会話は禅問答のようで理解に苦しみます。このシーンに来るまで2時間余りに付き合ってきた観客にとってはどことなく理解できる部分もあるから不思議です。観客も異常性を共有したのだろうか。

 

 王国には先にデニス・ホッパーもきていて、ごちゃごちゃ情報を持ってくるが、どうでもいいものばかりですし、狂言回しとしても機能していませんでした。彼のシーンの必要性は特に感じませんでした。じっさいマーロン・ブランドの失態ばかりが注目されていますが、デニス・ホッパーもひどく、彼はロケ中、ずっと薬物を使用していて、ヘロへロになっていたそうなので、コッポラも彼には怒り心頭だったそうです。

 

 最初に見たときはマーティンが牢獄に繋がれているシーンでカーツに首を抱かされるカットがあり、この首はデニスの物だと思っていましたが、よく見ると部下のシェフだったのを後になって気づきました。それに気づいて以降、ますますデニスのシーンが無駄に見えました。

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 いよいよクライマックスに近づいてきました。後半の20分間は理解するのに苦労する時間帯ではありますが、映像として強烈に記憶に残るシーンがいくつかあります。ボードから出たあとに潜って、マーロンの居所近くまできて、ついに水面から顔を出すシーン。軍人らしく、感情を無くして、命令を淡々とこなしていくマーティンの澄んだ顔が印象的でした。

 

 暗殺シークエンスでは二つのシーンがクロス・カッティングで描かれる訳ですが、各々ひとつずつを見ていきます。ひとつ目は儀式のための生け贄に使われる牛が民衆の前に引かれてくる。哀れな生け贄は牛刀によって一気に息の根を止められてしまう。  

 

 松明の灯りがオレンジ色に染まっていて、血の臭いと煙が立ちこめてくる、まるで自分たちもそこにいて、呼吸をしているようなとても残酷なシーンでした。息苦しさと空気の重さは画面を見ていても解ります。

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 つぎにもうひとつのシーンを見ていきます。それはマーティンがマーロン、つまりカーツ大佐の暗殺を決行するシーンです。哨戒艇から出て、川を潜ってマーロンの居場所に近づき、祭礼の喧騒に紛れ、寝所に入り、彼を襲撃し、刺し殺す。死に絶えようとする彼の断末魔の声である「恐怖!恐怖!」を聞いてしまう。

 

 以上二つのシーンを平行編集して、時系列を合わせて、交互に見せることにより、観客はよりこのクライマックスに引きつけられる。カットの割り方はよりドラマチックに見えるように意味深長に、しかもスピードをどんどん増してカットを割っていく。

 

 牛が最後に死んでいくモンタージュというと、セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の『全線』を思い出します。倒れる牛の意味がこの二つの作品ではだいぶんと違いますが、このへんも映像の面白さなのかもしれません。

 

さあ行こう、ベイビー いちかばちかやってみよう

 

さあ行こう、ベイビー いちかばちかやってみよう さあ行こう、ベイビー いちかばちかやってみよう

 

ブルーバスの後ろで待っているよ

 

これで終わりだ、すばらしい友よ これで終わりだ、

 

ただひとりの友よ 終わりなんだ

 

 この二つのシーンは各々が映像に力がありますが、それらを接着する役割を負い、しかも混ざり合わせることによって、さらにレベルの高いクライマックスに昇華させたのがオープニングに続いて使用される『ジ・エンド』のオルガン演奏シーンでした。このクライマックス・シーンでの使用部分はこのナンバー自体のクライマックスでもあり、11分以上にも及ぶ長い曲の終わり間近の演奏部分でもあります。

 

 ドアーズというとどうしてもジム・モリソンが脚光を浴びますが、じつは彼らの音楽性を支えていたのはキーボード・プレーヤーのレイ・マンザレクであり、コンポーザーでギタリストのロビー・クリーガーであり、印象に残るリズムを刻み続けたドラマーのジョン・デンズモアでした。

 

  今回はこのドアーズのファースト・アルバムである『ハートに火をつけて』を聴きながら、この文章を書いていく時間が多かったのですが、あらためて聴くと彼らの高い音楽性に驚かされます。

 

 『ハートに火をつけて』『ブレーク・オン・スルー』『水晶の舟』『20世紀の狐』『エンド・オブ・ザ・ナイト』『チャンスはつかめ』、そしてエンディングの印象を圧倒的なものにする『ジ・エンド』と一度聴いたら忘れられない魅力を持つナンバーばかりなので、ついつい通勤時にもCDを持ち出して、ウォークマンで聴く日も多かった。

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 ぼくはどうもiPadが苦手で、音楽を聴くならばCDかアナログ・レコードを選ぶことが多い。好き嫌いで言えば、アナログが一番なのですが、年々聴きにくい環境になっていくのがつらいところです。技術は進歩していくので仕方ない。しぶとくアナログを楽しんでいきたい。

 

 このアルバムにはもう一曲意味深なタイトルのナンバーが収録されています。それは『20世紀の狐』という曲なのです。対訳には上記のように記載されていますが、映画ファンならば、それが20世紀フォックスという映画会社であることがすぐに分かりますし、おそらくパロディなのだろうと推測がつきます。

 

 対訳した人やライナー解説ではまったく触れられてはいませんでしたが、たまたまこのアルバムの仕事を請け負った人が映画に詳しくなかったのか、それともあえて触れなかったのかは分かりませんが、ぼくら映画ファンはそういう洒落をも楽しみたいものです。 オープニングでも効果を発揮したドアーズでしたが、ラストでの使用は絶大なイメージを観客に植え付けます。曲は単純ではなく、複雑な表情と意味深長な歌詞がぼくらを迷わせる。

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 意味深といえば、この映画のタイトルの原題は『APOCALYPSE NOW』であり、現代の黙示録とでも訳せばいいのだろうか。そもそも黙示録とは何だろうか。預言書と捉えるようですが、ここでは予言というよりも寓話といったほうが適当でしょうか。

 

 全体を通して見ていくと、この映画はフラッシュバックのモノローグを使っていることからも明らかなように、任務から生還したウイラード大尉の内面の葛藤を探る旅の形態をとっている。

 

 ただし各エピソードは彼個人の経験談というよりも、ベトナムでの軍隊そのものの非日常的なトピックの羅列に過ぎない。それが彼のエピソードであるように見えるのは彼自身がアメリカ軍を体現しているからだろうか。

 

 凄惨なベトナムにおいても、彼やキルゴアは軍人として機能し続けているのに、より優秀な将校だったカーツが落伍していったのは何故だろうか。

 

 物事を深刻に考える賢者のほうが狂気にかすめとられるのか。どうしようもなく、袋小路に迷い込んだときに死を切望するのは単なる逃げだと言い切れるのか。ここに出てくる3人の士官は一般的なモデル分類となりえるだろうか。

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 外部に狂気を発散しているキルゴアはイカレたオッサンです。陽性の狂気。冷静に状況を見るというバランス感覚を持ち、とりあえず任務を遂行していくウイラードはサラリーマンでしょう。狂気を心に秘めていますが、度合いが他の二人よりも少ないのでしょう。

 

 彼らに対し、より強固な信念を持ち、内向きに戦場の狂気を受け止めたものの狂気に犯され、ついにその狂気が逆流するように毛穴から吹き出してきているのがカーツなのだろうか。

 

 答えは出ません。ドアーズの『ジ・エンド』が再び登場してきますが、それは曲自体が佳境に入るオルガン・ソロのパートが使われています。このテイクはファースト・アルバムである『ハートに火をつけて』のラストに収録されている11分以上の長さを持つものである。

 

 ドアーズの長いナンバーと言えば、『ハートに火をつけて』がもっとも有名でしょうが、この『ジ・エンド』の持つ詩情もまた彼らの音楽が生み出した到達点でしょう。

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 ドアーズの音楽、生け贄を捧げるシーン、そしてカーツ暗殺シーンという三つの要素が一体となった結果、マーロン・ブランドの失態から脚本を変更せざるを得なかったために差し替えられた本来あるべき姿とはまるで違うクライマックス・シーンが生まれました。

 

 ガタガタに崩壊しそうになった映画のクライマックスが奇跡的な着地点に到達しました。しかもそれは重々しく、とても訳ありに見える。

 

 振り返ってみれば、ラストに近づいてきましたが、この映画でのテレジェニックなシーンのあまりの多さには驚く他はありません。前半はもちろん、後半もパワフルな映像が次々に現れてきては、ぼくら観客を幻惑します。

 

 長くなりましたが、この一連のクロス・カッティングを駆使したクライマックスのあとはまるでモーゼのようにマーティンは人波が消えてなくなる真ん中を歩き、ボートに乗船し、主を失った王国を後にする。

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 そしてエンド・クレジットが流れる中、音はなくなり、サイレントになる。静寂に包まれている王国の上空に突然光の束が降り注ぐ。それは焼夷弾とナパームが大量に撃ち込まれている情景です。

 

 その様子はまるでディズニーのお城に上がる花火のように美しい。だが綺麗な光りの真下では何百か何千かの命が失われている図でもある。アメリカ軍、いやアメリカ人にとっては爆撃は常に実行する側であって、爆弾を撃ち込まれて、逃げ回る側ではない。

 

 彼らにとってはシューティング・ゲームでしかないのであろうが、彼らが狙っているのは生きている人間であり、遊戯の的ではない。しかしながらわが国を始め、ベトナムイラクに到るまで、彼らが行う戦争では常に遥か彼方の上空という安全地帯を確保した上での無慈悲な空爆を実行してきた。

 

 無力化してから陸軍や海兵隊が乗り込んできているはずだが、たいがいの戦場は泥沼化し、中途半端な妥協点を見いだし、撤退していく。戦争の意味とはいったい何だろうか。戦争が最大の外交だとうそぶく者も多い。平和こそすべてだという偽者も多い。力なき正義、正義なき力ともに意味はないし、同じ穴の狢でしかない。

 

 恐怖はすべてを狂わせるのでしょうか。

 

総合評価 92点