良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『羅生門』(1950)永田社長は理解できなかったが、外国人によって理解された黒澤ブランド。

 黒澤明監督作品中、おそらくは『七人の侍』『生きる』とともに、半世紀以上に渡って、世界中の映画ファンによってあれやこれやとさんざん語り尽くされてきたであろう『羅生門』について、今さら何を書けば良いのやらと少々気が引けます。  それでも40歳過ぎの映画ファンとして、自分が何度も見てきた『羅生門』を整理するために、この作品についてあれこれ感じたことを書き連ねるのも良いのかなあと思いつつ、一年ぶりにこの映画のDVDを再生しました。
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 少なくとも毎年一回はスカパーやWOWOWでの放送かDVDでこの作品を見ています。大学生になってはじめてレンタルビデオ屋さんで借りて以来、たぶん三十回以上は色々な媒体で見ています。  30メートル以上はある巨大な羅生門のロケ・セット、大きさが3メートルで高さが1・5メートルもある羅生門と記された大きな扁額、その半壊した外廓の門前に降りかかってくる滝のような真っ黒な雨、光明寺や奈良の原生林に煌めく木漏れ日、風に揺れた市女笠、三者三様に食い違う言い分、杣売の不審な行動と取って付けたような罪滅ぼしを何度も見てきました。
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 大映に企画を通すときに出した条件は羅生門のセットと検非違使の裁きの場のセット、羅生門の後ろの書き割り、あとは奈良や京都でのロケのみという形だったので、経営陣は安く上がりそうだと誤解して撮影にオーケーを出したそうですが、出来てみるとその巨大さとディティールへの凝りに辟易したようです。  オープニングの雨も印象的なこの作品は黒澤映画の代名詞でもある土砂降りの雨が観客を圧倒します。さすがにモノクロなので分かりやすくフィルムに定着させるために雨用に借りてきた消防車の水には墨汁を混ぜて撮影するという工夫をしていたというのも読んだことがあります。
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 ロケ地は木津の河原や光明寺の森、奈良の奥山の原生林などが使われて、撮影の宿舎は奈良市にあったようで、たしか毎晩出演者やスタッフで飲み会をして、酔っ払った勢いで若草山まで登っていったというエピソードも何かの本で読みました。うちの近所なので、この映画に対してはどこか親近感があります。  映画撮影の革新と言われたカメラを直接日光に向けるという無謀なチャレンジを行いましたが、もともとはブニュエルの初期作品(たぶん『黄金時代』か『アンダルシアの犬』で見たような?)で日光を撮っていた気もします。これ以外にも影と光のバランスが素晴らしく、風が吹いている描写も美しく、語られない多くのシーンにもセンスが溢れています。
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 物語の重要なポイントになる市女笠が風に揺れるシーンも何度見てもエロティックです。きらりと光るような白い肌がほんの一瞬だけ風のいたずらで見えてくる。風の一吹きで殺人が起きる訳ですから、このカットは撮影陣も緊張しながら臨んだことでしょう。  お話の展開としては真相はまさに藪のなかです。武士・その妻・盗賊の三者各々にとって都合の良いことばかりを主張して、それが真実のように言い繕うのが人間の弱さであり、奥底に潜む性質なのだろう。
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 そういった人間の本質が剥き出しになってくるのが犯罪現場や裁きの場ですので、あまり見たくはない人間の醜悪さが明かされていく。とりわけ死んでしまった後でさえ、まだ自分に都合の良いことを巫女(本間文子)を通じて訴えてくる森雅之に至ってはその妄執に驚かされる。  平安の末世では女は封建的な考え方に徐々に支配されていく過程だったのだろうが、それでもまだ女は逞しく、京マチ子は強い我欲を隠しながら、有利な着地点を探りながら裁きの場に臨んでいる。
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 彼女の姿からは武士だった夫(森雅之)を亡くした悲しみはあまり感じられないし、彼女を守れずに三船にしてやられた彼に失望し、軽蔑している。彼女は犯された上に拐われたのだと主張する。  盗賊(三船敏郎)も盗賊としての自身の評判のみを気にしています。武士と果たし合いをして、互いに斬り結んだ末に縛り上げて身動きができない状態にしたところで彼の眼前でその妻を犯す。そんな無力な夫をあっさりと捨て去り、彼にすり寄ってきて、共に逃げようと言い出した女の強欲と変わり身に呆れ果てたのだと言い出す。
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 都合の悪い部分では証言は各々で大いに食い違ってくる。暗い森は人間の奥底の恥部や悪想念を映像化したようでもあり、すべてを明らかにするはずの白洲の場においてもなお言い逃れや自己保身に奔る亡者の姿に恐れおののく。  いったい事実とは何なのだろうか。この件に限らず、関係者の総意があった部分や権力者に都合の良い展開が真実として語り継がれていくだけなのだろうか。各々の主張の極端な部分は異聞として細々と語られるのか。
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 人間不信が次々に語り手を変えていくことで増幅されていき、最後になって杣売の捨て子を育てるエピソードが強引に挿入される。人間の嫌な部分をさんざん見せられた後に唐突に杣売が微罪の罪滅ぼしに子どもを抱きかかえていくシーンでこの映画は終わります。  賛否両論あるでしょうが、映画館にこの映画を観に行ったとして、最後まで妄執を見せ続けられたら、帰り道を暗い気持ちで戻って来なければなりません。
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 お金を払って見るのであれば、完全な辛口ではなく、ほろ苦くらいにしてもらわないと困ってしまいますので子供を引き取るエピソードはあって良いのではないか。  『羅生門』は自宅で好き勝手に映画の文句を言い立てる者ではなく、映画館に来てくれる観客のために製作されているわけですから、この匙加減の甘さはちょうど良い。白洲の場を更に強調するハイキーの白の明るさは森の木漏れ日ほど話題にものぼりませんが、対比の妙としては映画ファンを唸らす場面に思えます。
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 ハレーション気味に白く飛んでしまっているような画面は穢く暗く醜い者をより強調して、彼らの無慈悲を見下し、嘲笑するようにも見えるし、ここでは何者も隠し事などは出来ないのだと圧迫してきているようにも見える。  もちろんこの映画が有名になったのはテクニック上の革新にもよります。当時は撮影技術上はタブーとされていて、あえて誰も行わなかったカメラの動き、つまり太陽に直接カメラを向けるというかなり実験的な手段を取る。
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 まともに太陽光を撮影しても、上手く行えばフィルムを駄目にすることがないことを証明しました。暗い森のなかを何枚もの鏡を組み合わせて光を持ってくることで光源を確保していますが、まともに反射光を浴びるために、志村喬は撮影で目をやられてしまったそうです。  森のなかを歩いていくシーンをワン・シーン・ワン・カットで構成し、途中でカメラが人物を追い越すようなカメラ配置と動かし方にもゾクゾクします。稀代のカメラマン、宮川一夫の技術が冴え渡るこの作品は日本映画全体の底力を世界にアピールするとともに戦後復興を知らしめる明るい材料になったのではないか。
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 黒澤明監督と『羅生門』が支持されたのは映画の可能性を広げた革新的な姿勢に観客や映画関係者が感嘆したからであり、当時の題材としてはショッキングな殺人と強姦を取り扱い、しかもそれらをしっかりと法廷劇に仕上げた脚本と演出の見事さ、数少ない出演者たちによる気迫のこもった好演によるものでしょう。  早坂文雄の音楽もまた語らねばならない重要な作品の要素でしょう。ボレロまんまではないかと悪口を言われたそうですが、今となってはそういった小さなことに拘らずに、映像と音楽が一体となって、映画を力強く盛り上げていく様子を見守りたい。
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 労働争議などで東宝がごたついていたために会社を飛び出し、大映で撮らざるを得ない状況下で製作し、なんとか完成したものの大映社長の永田雅一に訳が分からないと酷評されてしまったこの作品はたしかに娯楽作品という範疇にはなく、実際の興行も思わしくはなく、忘れ去られようとしていました。  そんな不遇な作品ではありましたが、外国人には興味深かった作品だったようで、外国人女性(たしかインド人。)がこの作品を映画祭の日本代表として出品しました。先ほども申しましたようにけっして見て楽しくなる作品ではなく、時代劇でも『用心棒』や『七人の侍』のような活劇的な要素はないので取っ付き難いかもしれませんので、作品の価値は認めるが好きではないという方も多いでしょう。
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 それがヴェネチア映画祭で、さらにまさかの金獅子賞を日本映画としてはじめて受賞し、その後の溝口建二監督の『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』に繋がるヴェネチア映画祭での賞取り三連覇の道筋をつけたエポックメイキングな作品となりました。ちなみに個人的にはこの後に出品された『近松物語』のほうが出来栄えが素晴らしく、香川京子出演作のベストだと確信しています。  ただ大映はテレビの台頭により娯楽の対象が映画離れが加速化していくなかでも、大作主義に走ったりしたために金策に行き詰まっていき、結果は倒産してしまう訳ですから皮肉なものです。なかなか日本では評価されないが、海外では大人気となる黒澤明監督のその後の映画人生を暗示する作品にもなっているようにも思えます。
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 日本人が自分の国の映画の実力を理解していないのは寂しい。海外で評価されてから、功績が認められるというのはオリンピックやノーベル賞だけではなく、映画でも同じです。  何度も見てしまうこの映画をあと何回見るのだろうか。こんな感じだったら、毎年一回は日を決めて、羅生門の日を作っても言いかもしれません。
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 最後にこの映画についてよく言われる陰口で最も多いのは「音が悪い」「台詞が聞き取りにくく、何を言っているのかさっぱり分からない」という二点であろう。たしかに分かりにくい。ただこの映画のもともとの製作意図としてはサイレント映画の面白さや表現をもう一度再現したいというものでした。  この意図があるために演劇的には外国人にも分かりやすい表現となり、多くのファンを獲得することに貢献したのかもしれません。また太陽光の取り込みやワンシーン・ワンカットなどの映像表現の工夫は革新的かつ挑戦的な姿勢を生み出し、すべての金獅子賞作品中でもっとも評価される作品として認められることにも繋がったのでしょう。 総合評価 92点