良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『メキシコ万歳』(1931&1979) 未完に終わったメキシコの歴史絵巻。彼の本質は不滅です。

 元々は1931年に制作され、公開されるはずであったものの、ついに制作中止に追い込まれたエイゼンシュテイン監督の作品。『ベージン草原』も同じような運命を辿りました。ハリウッドに招かれて映画制作をするはずだったのが、アメリカ側と揉めた為に仕方なく、そのままメキシコに渡り、作り始めたのがこの作品でありました。

 

 当然お金がほとんど無い中での制作となってしまったので、スタッフはエイゼンシュテイン監督自身と、撮影のエドゥアルト・ティッセ、そしてのちのちになって重大な役割を果たすことになる助監督のグリゴリー・アレクサンドロフのわずか3人でした。

 

 俳優を雇う金など全く無い上に、学術調査に2ヶ月以上費やしてしまったために、結局は素人を俳優として使わざるを得ませんでした。セットを組む余裕などある訳も無く、全てオール・ロケというゲリラ的な態勢にならざるを得ませんでした。

 

 全くの素人相手に演技をつけるのは、大変な骨の折れる仕事だったと思われます。ただでさえ、言葉の通じない異国の地で、スタッフもわずかで資金も資材も不足する中で、よくぞここまで纏め上げたものです。メキシコ内部にも共産主義シンパが少なからずいて、彼らが力を尽くして協力したからこそ、未完ながらも優れた作品の持つエネルギーを失っていないのだと思います。

 

 結局完成することなく終わったこの作品のフィルムの保有権は、アメリカの関係者にあったため、ニューヨークの近代美術館に所蔵されて、その後の冷戦の影響もあり、50年近くもの間、ロシア(当時はソビエト連邦)の関係者に手渡されることはありませんでした。

 

 50年は長すぎたため、エイゼンシュテイン監督も、撮影を受け持ったエドゥアルドも既にこの世の人でなく、ただ一人残されたアレクサンドロフによって、出来るだけ当時の監督の思惑に近づけるという歪な形になりながらも、1979年になって(その前にも、アメリカ側の編集で発表されていたようですが、当然エイゼンシュテイン監督の構想とは程遠かったもののようです。)、ようやく世に出ることになりました。

 

 具体的に見ていきますと、この作品は映像作品としてのオリジナリティは抜群であり、遠近感を利用して、巨大な石造りの神殿と若い女性の顔を、同じ大きさに映して見せる映像などは後年にロマン・ポランスキー監督が『水の中のナイフ』で見せたような映像を想像してくだされば、理解しやすいと思われます。

 

 エイゼンシュテイン監督らしい幾何学的な模様や図形も全篇に溢れ、さまざまな動物や石像の映像が、新たなイメージを作り出すべく使用されています。

 

 アステカを象徴する石像と建築物は彼らの伝統と誇り、そして怒りを呼び覚まし、現政権への矛盾を鋭く突いてきます。こういう印象を持たせるべく、エイゼンシュテイン監督はモンタージュを駆使します。

 

 彼の作品に馴染めない人は、この作為的なモンタージュを嫌いますが、方法論として上手く使えば、映画制作にたいする重要なヒントを与えてくれる映像の宝庫です。

 

 謎に溢れる映像は「死」と「再生」のイメージを作り出し、生きている者が死んでいるような、そして石などの無機物、つまり死んでいる物がまるで生き物のように見える錯覚を覚えます。生きるものがこのように気味悪く見えるのは何故なのか。

 

 結婚後の「愛」の営みは、中南米独特の草木によって覆い隠されるが、鸚鵡と豹のモンタージュにより、親密さと行為の激しさが表現されています。このようなモンタージュは全篇に出てきますが、より興味深く見られるものに図形や構図があります。

 

 ある場面から次の場面に転換しても同じ構図や図形が、別の類似した人物の様子や図形や構図に変化していく妙味を見ることが出来ます。なかでもエイゼンシュテイン監督の左右対称へのこだわりは病的なほどです。

 

 「円環」そして「円」のイメージも彼のお好みのようです。まるで残像が残って新しい映像に変化していくような奇妙で心地よい感覚があります。

 

 構図のモンタージュ、図形のモンタージュ、相似性のモンタージュ。  ストーリーとしては、短編の組み合わせからなるオムニバス映画の形態をとっています。「死」と「結婚」が繰り返し示される。まるで「結婚」が「死」の始まりであるかのように。

 

 エイゼンシュテイン監督の作品らしく、幾何学的なイメージ、今回は「円」と「円環」、それに対応する中米特有のギザギザの葉の作り出す「鋭利な図形」のイメージは、「平和」と「障害」なのか。このイメージの対立は全篇で示されます。

 

 エイゼンシュテイン監督の作り出すイメージは、モンタージュにより、強制的に導かれる。徹底して作為的に誘導されるイメージと、それにより観客に喚起される、予め仕組まれた感情の湧き上がり方、誤解することの許されない彼の作品は、現代のファンにとっては窮屈に思われるものかもしれません。

 

 最もヴィジュアル的に有名な映像もとても作為的で、しかも完璧に計算された美しさを持っています。画面の前面には二つの骸骨、中段には二人の殉教者、後段両端には二人の子供(これはメキシコの輝ける未来か。)、そして一番奥の中央には、「死」を象徴するように十字架が示され、全てを支配するイメージをうかがわせます。

 

 メキシコにとっては、西欧人とはキリスト教という邪教を強要する悪魔にすぎなかった、と言わんばかりの映像が監督によって示される。「キリスト教」は、共産主義者にとっては資本主義とイコールで結ばれる概念として扱われています。

 

 理屈っぽく書けば、こうした感じになってしまいます。しかしそれだけではなく、映像を注意深く見ると、見ただけでイメージを描けるように、意図された映像が解りやすく観客に示される。図形の遊びとしては、「影」と「人物」で表される、上下の画面の中での対称性はとてもユニークであり、画面内での左右対称や図形の類似だけではない面白さを感じました。

 

 短編の組み合わせである、この作品ではシークエンスのつなぎとして、「聖なる山」が度々登場します。遥か彼方に悠然と構える山は、メキシコ国民の苦しみに満ちた現代と、栄光のアステカを見守ってきました。

 

 共産主義者が作ったためか、「持つ者」は全て「悪」として描かれ、「貧者」は全て「聖なる者」として描かれています。鼻持ちならない、噴飯物の映像が「美しく」観客に迫ってきて、洗脳しようとします。1910年の革命を描く途中で、制作費が完全に底を尽き、唐突に幕を閉じるこの作品。

 

 エピローグではアレクサンドロフが再び登場し、其処までの経緯を話した後、残りの映像とメッセージが導かれてきます。進んで革命に身を投じろと強要するイメージとメッセージ、飛び立つ「鷲?」の イメージは精神の高揚を表し、革命の正当性を誇示する。唾棄すべき映像だが、モンタージュとイメージの繰り返しを使用することで、観客の感情を革命への渇望へと導いていく、エイゼンシュテイン監督の手腕は尋常な力量ではない。

 

 個人的には、エイゼンシュテイン監督の作品の中では、『戦艦ポチョムキン』についで大好きな作品です。いろいろなイメージを湧き出させてくれる映像の宝庫です。本来ならば、最後まで撮ってもらい、監督が納得する形で見てみたかった作品でもあります。

総合評価 82点 

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