『ストライキ』(1924)エイゼンシュテイン監督の処女長編作。出来はポチョムキン以上!
ストライキとは労働者たちが一致団結して、貴族や資本家によって制限されていた権利を回復し、弾圧及び規制されていた言動を主張しながら、労働者全体の地位向上のために行われる集団的行動のひとつであり、ストライキの究極はチェ・ゲバラの言うように国内の労働者全員によってなされるゼネラル・ストライキ(ゼネスト)である。
ゼネストの威力は思っているよりも凄まじい。1970年代後半から、ポーランドではワレサ議長がリーダーとなった連帯が勢力を伸ばすに連れて、共産党は力を失っていきました。アンジェイ・ワイダ監督が苦労して映画製作をしていたこの国でも表現の自由は皆無で、さまざまな制約のなかで作り上げたのが『灰とダイアモンド』であり、『大理石の男』であったのです。
ゼネストに戻りますが、全国民規模でこれが行われるというのは体制側にとっては経済的な損害のみならず、内外に自らの権威の失墜を全世界に知らしめることになる。それほど体制に対して、大きな脅威になりえる要因になるストライキという言葉の響きを聞いて、現在の若い人たちはどういう印象を持っているのだろうか。
ストライキなどという言葉すら聞いたことがないというのは論外だが、遠い昔の時代遅れの行為であって、自分たちには何の関係もないと思うのも大間違いである。たかだか百年すらも経っていない、人類の歴史から見れば、ごく最近の行動なのである。
また我々が住んでいる日本だけを基準にするのも大間違いで、世界中で今でも国民の言論や権利にたいして多くの制限がある地域や国が多数存在するのが事実である。エイゼンシュテイン監督自身も共産党のというより、スターリンが支配していたロシアで、プロパガンダの最大の功労者の一人であるにもかかわらず、自由度は少なくなるばかりで、検閲に次ぐ検閲で、本来の彼が意図した映画が撮れなくなっていきました。
最終的には"時代劇”である『イワン雷帝』『アレクサンドル・ネフスキー』を撮らざるを得ない状況に追い込まれていき、1948年に、50歳という当時でも短い部類に入る年齢で、心臓発作を起こし、帰らぬ人となりました。この年齢での死はやはり疑問が残ります。死の原因は未だに解明されていないようですし、これからも公になることもないのでしょう。『イワン雷帝』は暗にスターリンを批判する内容だったために、完成したにもかかわらず、何年も上映許可が下りませんでした。
共産ロシアだけではなく、近くの地域を見回しても、共産中国、ミャンマー軍事政権、北朝鮮などに言論や表現の弾圧はあっても、自由は存在しない。もっとも、これら危険な隣国がひしめくなかでも、裏付けのない平和やら、軍縮の甘いムードに乗って、基地撤退を声高に叫ぶ輩は無責任極まりない亡国の徒であり、何を考えているのか理解に苦しむ。
また、かつては世界一であったアメリカが何とかしてくれるという時代も、じつはもう終わっているのではないだろうか。冷静に振り返って見ても、十年前と今では、昔のほうが良かったという人が大半だろう。それでも立ち上がらないのが我が国の人々かと絶望的になりましたが、幸いにも去年は政権交代がおきました。
なかなか進まない改革にイライラするのは解りますが、自民党が半世紀以上かけて腐らせた国を変えようとするのですから、時間はかかって当然でしょうし、抵抗はますます激しくなるでしょう。もっとも中身に関しては、リーダーであるはずの首相も幹事長も金まみれで、庶民の気持ちを汲んだ政治をしていくかは疑問である。
かといって、惨敗した自民党には微かな期待すら出来ない。絶望的なムードが国中を覆っているのがなぜ政治家には分からないのでしょうか。さて、歴史を振り返ると、わが国にも民衆勢力による反抗がかつてありました。農村で一揆が発生したり、反乱が起こることもたびたびありましたが、農民であった多くの日本人は基本的によく働くので、サボタージュやストライキという概念はなかったのだろうか。いやいや、そんなことはない。
死を賭けて、自分たちのコミュニティーを守ろうという一念を持って、覚悟の行動である一揆を選んだ者たちは残念ながら、ほとんどの者が無名のまま、凄絶な最後を遂げたことでしょう。しかしその中には一向衆や本願寺のように一大勢力にのし上がる者もあったであろう。
これらの原動力は宗教でした。権力に反発しようとする者が手っ取り早く、民衆の支持を受けようとすれば、最も利用しやすいのは価値観を共有しやすい宗教だったのは自明の理であったのは間違いない。しかし体制側が権力だけではなく、宗教をも牛耳ってしまった場合、虐げられた民衆が向かう先は異教か新思想しかない。
島原の乱などは前者であり、今回採り上げた、ロシア革命などは後者であろう。イエス・キリストとマルクスという二人のユダヤ人の思想の違いが多くの悲劇を生み出してしまったのは非常に残念です。ただし両者が目指したのはより良い世界の実現であったことに異論を挟む人は皆無であろう。
さて、ここからは映画『ストライキ』についてになります。セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の代表的な作品といえば、ほぼすべてのクラシック映画ファンは『戦艦ポチョムキン』と答えるでしょう。確かにポチョムキンはエイゼンシュテイン監督の代表作であるばかりではなく、映画史上でも重要な位置を占める作品となっています。
しかしながら、『戦艦ポチョムキン』に比べて、彼の処女長編作である『ストライキ』が劣っているかというと、そのようなことはなく、むしろ、より彼が映画という表現方法を探求し、楽しんでいる様子が窺える。すでに『ストライキ』には『戦艦ポチョムキン』や『十月』、そして『メキシコ万歳』に至るまでの芽を見つけることが出来るし、すでに才能の花が開花しているのが解るでしょう。
『戦艦ポチョムキン』のオデッサ階段や『アレクサンドル・ネフスキー』の迫力ある戦闘の様子は『ストライキ』のあ
ちらこちらに広がっている。むしろより残虐であるばかりではなく、混乱に巻き込まれていく臨場感があり、ドキュメンタリーの様相を見せるシーンもいくつかあります。
そしてエイゼンシュテインといえば、モンタージュ理論で有名ですが、ここでも見事なまでに彼の神業が冴え渡っています。ロシア官憲による民衆の大量虐殺の様子は妖気が漂うような修羅場の映像でした。女も子供も容赦なく殺戮していく様子はハリウッドの甘口映画に慣れきった人には驚きであろう。
わざと支配にとって邪魔な労働者リーダーたちを殺害するために放火をして、責任を彼らになすりつけようとしたり、彼らが誘いに乗らないと業を煮やして、消防車を使って、放水を仕掛けたりするなどは現在も、デモ行動に対して行われる制圧の方法ですし、騎馬警官の出動もまた行われている訳で、けっして大昔の話ではないことを理解すべきでしょう。
官憲は高層住宅へ騎馬警官を向かわせ、住民を襲撃し、赤ん坊をつまみ上げ、集合住宅の上層階から地面に向かって放り投げるのです。百年近く前の映画にはこんなショッキングなシーンがあるのです。牛や猫なども生きたまま首を切られたり、首を吊られたりと醜悪な映像が続く。こういう映像を観た観客は間違いなく、ロシア帝国を憎むようになっていくだろう。
観る者の感情を一定の方向へと導いて行くモンタージュ理論の恐ろしさ、凄みをぜひ堪能してほしい。堅苦しいばかりではなく、動物のイメージとスパイ各々の人間性を重ね合わせたり、写真の人物を動かしてみたりとコミカルな描写も多々あります。
もちろんエイゼンシュテインらしく、幾何学的な図形のイメージを使って、映像に導いて行ったり、確信犯的に労働者側の俳優の演技を自然でクセのないようなしぐさをさせる一方、前時代的な仰々しい演技を権力者側にさせたりと、悪意が十分感じられる作りになっています。
後半の攻撃的なモンタージュの連続は圧巻であり、冷静に見ることの出来る映画ファンならば、彼の映像の作り方に驚かれるでしょう。映像の意味の持ち方について、深く考えない方がこれを観たならば、エイゼンシュテイン監督の思うがままに権力側への憎悪の炎を燃やすであろう。
いまでも力強く、観る者をグイグイとその世界観に引きずり込んでいく方法論は十分に通用する映画の製作スタイルであり、その生々しさは迫力があります。古臭いという人もいるのでしょうが、これは1924年の作品であり、すでにこのような映画が公開されていたのだという事実事態がショッキングなのです。
ハッピー・エンディングとは相容れない、最悪のバッド・エンディングの展開となっていく。子どもですら容赦なく殺戮されていくなど、まったく救いもなく、逃げ惑う群集に自国民を守るはずの官憲が追い立てて、無差別に発砲し、死体の山を積み重ねていく様子は地獄絵図である。
劇中には実は多くのコミカルなシーンがあります。ハリー・ポッターのように写真が動き出すカット、動物と人物のイメージを重ね合わす映像のつなぎ、浮浪者のリーダーが口から水を吹きながら頭髪の乱れを直すシーンでの子分とのやりとりなどは喜劇である。
のちのアウシュビッツの映像と同じようなインパクトのある映像がどんどん登場する。それらは脳裏に焼きつき、離れない。それこそが映像の力の悪用であり、エイゼンシュテインの言うように「映画の拳」なのでしょう。最高レベルの正統派(ベビー・フェイス)映画作家であるだけではなく、最悪の反則(悪役)映画作家でもある彼こそはロシア最高の映画監督と呼ぶに相応しい。
総合評価 95点