良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『真昼の決闘』(1952) 西部劇の名作であるだけではなく、むしろ人間ドラマの傑作。

 フレッド・ジンネマン監督、1952年制作作品。オープニング・シークエンスでの、悪党達の集合シーンの不穏さ、それと好対照となる保安官(ゲーリー・クーパー)と妻(グレース・ケリー)の結婚シーン。

 

 対照的なこのシーンが、後に保安官が味わう孤独の85分間を暗示する。この作品で、まず斬新な点は、上映時間である約85分間と、現実の時間の進行を合わせて、本来は覗き見するだけであるはずの観客をも、主人公の巻き込まれる、命がけの85分間に有無を言わさず、引き込んでいくところです。

 

 かなり強い緊張感が上映時間中、持続します。息抜きのシーンと言えば、孤独と絶望、不安とあせりで極限状態になっている保安官の後方を、平和そのものの足取りで、ゆったり歩いていく無関心で平和ボケした町の人々たちの通行の様子のみです。それすらも保安官の背負う苦しみと絶望とのコントラストを描いており、保安官の悲壮感をより強く表しています。

 

 無法者の帰還が、危ういバランスの上に成り立っていた町の平和を破壊しようとする時、うわべだけ機能していた町の人間関係はもろくも崩れ去り、自分の保身のみを願い、町全体のことなどまるで顧みない卑怯者の考えが町全体を支配します。実社会でもまま見られる、人間の卑劣さと身勝手を嫌というほど次々に見せつけてきます。

 

 全ての人間群像が正午に向かって動いていき、町では各々の人間性が暴かれ、その弱さを露呈する。卑怯者は終始一貫して卑怯であり、打算、卑劣、無関心で充満する街中を、保安官が助っ人を求めて、さまよい歩きます。孤独な戦い。彼らの町を守るためなのに、誰一人町のために立ち上がらずに、無法者の言いなりになろうとする。

 

 西部劇の形式を借りてはいますが、むしろ内容は現代劇が扱うテーマに近い。自分達の生活を誇りを持って守れるか。生物としては生きていても、人間としては既に死んでいる一般大衆。突きつける選択肢はあまりにも厳しいものです。悪と折り合いをつけて卑屈に生きるか、死を覚悟してでも誇りを守るのか。

 

 町の人々、一人ひとりの価値観と勇気が試される85分でもあります。85分間で全てを決められないのは仕方のないことかもしれません。結果、彼らは何もしない。何もしないのは消極的な協力であり、保安官にとっては全ての人間が敵となる。

 

 時間進行に対するジンネマン監督のセンスには、映画よりむしろ演劇の影響が出ているように思えますが、平行編集によりテンポ良く纏め上げていく手腕は彼の持つ素晴らしい才能であり、脚本の勝利でしょう。保安官の立場、ならず者の立場、町民の立場が上手く映画的に語られていきます。

 

 保安官を務める、ゲーリー・クーパーの演技は、悲壮感漂う背中と厳しい現実に向き合う顔の表情で見事に演じられ、ならず者達には観客の感情移入を抑えるためか極端に台詞が与えられず、 町民は一貫して卑怯、卑屈、利己的であり、保安官が誰のために闘うかという意義そのものに疑問が湧いてきます。

 

 西部劇が何故、これほど作られてきたのか、そして何故、名作と呼ばれる作品が多いのか。多く作られた理由としては、日本の時代劇と同じように多くの国民が安心できる勧善懲悪の作品が多いからではないでしょうか。

 

 勿論、後期になると『ワイルド・バンチ』や『さすらいのカーボーイ』などに見られるような残酷さや現在の価値観に近いものが示されるケースが増えてくるのも映画史的事実ではあります。ただ基本としては正義が勝つ映画であることを否定する人はいません。

 

 では何故、これほどまでに名作が多いのか。これはもしかすると台詞が少ないためかもしれません。男の世界を描き出す西部劇においては、大抵武骨で口少ない正義の男が主人公を務め、無駄な言葉を極力なくして、表情やカメラワーク、登場人物たちの行動で感情と思惑を表現した方が効果的であると思われます。

 

 そうした結果として、映画的表現の宝庫と言える作品を多く生み出したのが、西部劇というジャンルだったのではないでしょうか。『駅馬車』、『荒野の決闘』、『アイアンホース』、『シェーン』、『OK牧場の決斗』など今でも語り継がれていく名作の宝庫を、昔の古臭い作品だからと言って、一生見ないで通り過ぎるのは、本当にもったいないことなので、代表作と呼ばれる作品だけでも是非見ていただきたい。

 

 ショットにも秀逸な物が多く含まれる作品でもあります。駅のシーンは特に素晴らしい。なかでも、ならず者の親玉の到着を待ちわびる子分達の視線の先に示される、地平線の向こうまで続いていく 蒸気汽車のレール。全部で4回、観客に示されるこのショットは切羽詰った時間がもたらす緊張感を高めていきます。

 

 最初の三回では空が高く、線路の交差する地平線は画面中央です。この位置よりももっと空が多かったならば、観客は、より突き放された印象を持ってしまい、冷静な視線で保安官を見ることになり、彼と一緒の気持ちには、なれなかったかもしれません。

 

 4回目のショットでは空がなく、画面の一番上から驀進する汽車が示され、大音量の汽笛とともにならず者が、つまり保安官の宿敵が舞い降りてくるように到着します。このショットにより、保安官の敵がどれだけ強大なのかが映像で示されています。

 

 観客が特に見たいであろう親玉の顔を到着後すぐにあえて見せずに、いろいろな角度から徐々に見せていく演出も心憎いものでした。後姿から始まり、斜め後方、横顔、そしてようやく身体全体を見せ、彼のクロースアップが入ります。焦らしのテクニックは見事です。

 

 汽笛の音が町中に鳴り響く時の町民全員の顔、親分を待ちわびた子分達の顔、保安官を捨て去る女達、遺書をしたためていた保安官の厳しい顔が、交互にクロース・アップされていきます。劇的に最高潮を迎えようとする様子が見事にモンタージュで表現されています。

 

 後半部分の一連のモンタージュ・シークエンスはいろいろな撮影テクニックを用いて、映画の本質である映像表現により緊迫感と孤独感が示される、まさに映画の教科書の出来栄えになっています。

 

 俯瞰ショットは保安官の悲壮感、絶望感、無力感を最大に高める効果を発揮しています。テンポの速い平行編集で示される、登場人物全員が同時刻に何をしていたかを説明するショットにより、緊張は最大になり、観客の鼓動は高鳴ります。

 

 クロース・アップにより示される、追う者と迎え撃つ者、傍観する者、見捨てる者、彼を救おうとする者のそれぞれの決意と思惑を見逃してはならない。登場人物の進行方向も厳格に決められていて、クーパー保安官は左から右へ向かって歩いていき、反対にならず者達は右から左に向かって追い詰めていきます。

 

 各々が出会うその瞬間に銃撃戦が始まります。銃声とともに緊張は一気に解放され、新たに興奮が観客を包み込む。

 

 全てを見届けた後になって、手のひらを返すようににじり寄る卑劣な大衆に対して、彼がすることは命がけの使命をやり遂げた後に、本来あるはずの満足感ではなく、彼ら大衆の姑息さ、卑屈さへの無言の怒りである。

 

 保安官バッジを地面に叩きつけた後、新妻グレース・ケリーとともに、腐り切った町を振り返ることも一切なく、見捨てていく保安官ゲーリー・クーパー夫妻。

 

 その後のことなど知ったことではないとばかりに、唐突なエンディングを迎えるこの作品。見終わった後に何か、後味の悪さを伴う、このエンディングが作品の名声を更に高め、不朽の名作として語り継がれる大きな要因のひとつである。名作は「The End」が出てからも、見た者に余韻を残すものである。

 

総合評価 91点  

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