良い映画を褒める会since2005

他ブログで映画記事や音楽記事も書いておりました。評価基準は演出20点演技20点脚本20点音楽10点環境10点印象20点の合計100点です。

『ゴッド・ファーザー』(1972)映画の至宝!トーキー以後、これより完璧な作品は生まれていない。

 次から次に映画を劇場で観たり、衛星で見たりしているとなかなか出来なくなってくるのが、何度も何度も同じ映画を観るという楽しみです。本来名作やカルトと呼ばれる作品は見れば見るほど良い味が出てくるものです。それは画面から出てくることもあり、台詞から出てくることもあり、表情や音から出てくることもあります。

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 個人的に最も多く見たのは『ゴッド・ファーザー』で、最初にTV放送で見て以来、次の時に録画して何度も見て、レンタルが出だした頃に字幕版を借りてきて、マーロン・ブランドやアル・パチーノの本当の声に聞き惚れ、ビデオを録画して(昔はコピーガードなんていう野暮なものもなく、見る人も売ろうなんてあまり考えていなかった。なんせビデオ自体がべらぼうに高かった!)、それこそ擦り切れるまで、何度も見ていました。

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 そして衛星放送で放送された時に再び録画し、さらに何度も見て、DVDの登場とともにDVDを買い、いまでも年に一度は欠かさず見ています。これに勝る作品には未だお目にかかっておりません。

 

 続編である『ゴッド・ファーザーⅡ』も優れていますが、総合的な評価をすれば、パート1に軍配を上げます。ドラマの深みや深刻さではパートⅡの方に軍配を上げるのですが、圧倒的な世界観を示したこの作品に比べると、スケールの面で不満が残る。

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 もちろんロバート・デ・ニーロの素晴らしさは格別で、『レイジング・ブル』や『タクシー・ドライバー』などとともに彼の代表作である事は間違いない。それでも、この作品があったからはじめて作られたというのもまた事実なのです。

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 大好きな作品ですので、しょっちゅう見ても良いのですが、良いものだからこそ、年に一度の楽しみにしたい気持ちが強い。いつでも見れる環境だからこそ、大事に見ていきたい。ビデオ・DVDで気軽に見れる時代だから、敢えて年一回にこだわりたい。

 

 なぜなら、この作品ほど数多くの語るための切り口がある奥の深い作品はないのです。年一回ずつ見ていても、見る度に新しい発見があります。「死ぬまでに、あと10回は必ず見たい映画ナンバー1」を選べば、第一に持ってくるのはこの作品なのです。ではこれから何故好きなのかを順番に書いていきます。

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 書いていこうと思えば、脚本、演技、演出、衣装、セット、音楽、音響、その後の影響力、プロデューサー、パラマウントの当時の状況、マーロン・ブランドら俳優一人ひとりにスポットを当てていくなどいくらでも切り口はあります。  書いても書いてもきりがない化け物のような映画ですので、この作品に限っては何年に一度か再見した時の印象を再度書き連ねても良いかなと思っています。とゆうわけですから、今回は『ゴッド・ファーザー』第一回目として位置づけております。

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 まずはマリオ・プーゾ原作によるこの小品だった物語を縦横無尽に広げていった、フランシス・フォード・コッポラ監督による圧倒的な脚本とストーリー展開を忘れてはならない。脚本という、設計図と到達点があればこそ、全てのスタッフは全力で取り掛かっていける。ここがしっかりしてなくては名作など生まれようがない。

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 言い換えれば、ここさえしっかりしていれば、俳優が少々悪かろうと、演出が多少まずかろうと、セットがチャチであろうとある程度はお客さんは許してくれます。原作者マリオ・プーゾとともにコッポラ監督によって練られた今回の作品では、ストーリー展開、キャラクターへの命の与え方ともに最高に上手くいったのは明らかです。

 

 パラマウントのお偉いさんたちと作品の製作について大喧嘩してでも、この作品を見事に大作として世に送り出した、名プロデューサー、ロバート・エヴァンスの粘りもまた、映画史上に残る大きな貢献だったのではないでしょうか。

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 かつてMGMに君臨した名プロデューサー、アービン・タルバーグ並みの鋭敏なセンスを持っていたプロデューサーがこの作品の監督として選んだのがフランシス・フォード・コッポラという無名の監督だったというのはエヴァンスが経験ではなく、彼のセンスとイタリア系という出自を買ってのことでしょう。

 

 のちにさまざまなトラブルに巻き込まれ、殺人容疑を含め、裁判沙汰になることも度々だった悪辣な男ではありますが、『ゴッド・ファーザー』、『ローズマリーの赤ちゃん』、『チャイナタウン』、『ある愛の詩』などは彼がいなければ、存在していない作品です。

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 2時間でこの作品を撮りまとめたコッポラ監督をどやしつけ、「これはプロローグか?何をやっているのだ!もっと長くしろ!」と言い切ったエヴァンスの英断があってこそ、はじめて日の目を見ることになったのが、現在我々が見ることの出来る、壮大なスケールでマフィア一家の盛衰を描き出した『ゴッド・ファーザー』なのです。

 

 普通一般に、プロデューサー的な立場の人は劇場の回転率を考慮して、ファースト・カットとして監督が編集した作品から、出来るだけフィルムを切り裂き、公開しようとします。このやり取りを聞くだけでも、エヴァンスの映画を見る目の凄みを感じます。

 

 時代は違いますが、もしグリフィス監督やシュトロハイム監督のプロデューサーが彼のような人だったのならば、『イントレランス』や『グリード』の完全版を見る機会があったかもしれないと思うと非常に残念です。

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 つぎに注目したいのが演技についてです。全ての俳優によって演じられた、すべての登場人物各々が活き活きと生命を持ち、作品世界に必要不可欠な存在として作品中に登場し、ある者は生き残り、そしてある者は死んでいきました。

 

 全ての俳優たちの演技の現実味と凄みはどう表現したらよいのでしょうか。タリア・シャイアの悲しみの深さ、ダイアン・キートンの味わった疎外感、アル・パチーノの決意、マーロン・ブランドの悔い、ロバート・デュバルの忠誠心はいつ見ても新鮮な魅力があります。

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 フィルムの中には30年以上の月日が経ったにもかかわらず、ジョン・カザールの惨めさ、ジェームズ・カーンの無念さ、 リチャード・カステラーノ(クレメンザ)やレニー・モンタナ(ルカ・ブラジ)の存在感の大きさ、そして殺されたものたちだけではなく、生き残った者たちの無念と驚きをも見事に活き活きと切り取られていました。

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 生まれてくる赤ん坊がソフィア・コッポラというのもコッポラ一家とコルレオーネ一家をダブらせているように思えました。コッポラ一家にとっても、ファミリー・ビジネスとしての映画稼業をしていく上での基礎を固めてくれたのが、この『ゴッド・ファーザー』シリーズでした。イタリアの家族の結びつきの強さはなにもマフィア世界に限ったものではなく、国民性の問題なのではないだろうか。

 

 ただマフィアを語っただけの映画では30年以上も生き続け、ファンを増やし続ける事ができるわけがありません。物語の中に、そして映像の中に、見る者が共感できる人間としての普遍性を見つけ出せるからこそ、映画ファンは何度でもこの作品を見るのでしょうし、この作品を愛し続け、マーロン・ブランドアル・パチーノ、そしてゴードン・ウィリスによって焼き付けられたフィルムの世界観とニーノ・ロータの哀しい調べに忠誠を誓い続けるのであろう。

 

 俳優達に話を戻すと、彼らはその役になり切るどころではなく、その人そのものをフィルムに写し取ったようなリアリティを与えました。普通、演技派と呼ばれる人たちを大量に用いると、何かこじんまりとしてしまい、しかも芝居がかったような不自然な演技を見かけることもあります。現実っぽく見せようとすればするほど、何か不自然な違和感を味わう経験は一度や二度ではありませんでした。

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 それがこの作品では全くありません。各々が辛い宿命を持っていて、逃れられずに次々と死んでいく様はとても哀しく、クライマックスの暗殺シーンのオンパレードが一層人間の業の深さと哀しみを際立たせる。ヒーローと勝利者のいない物語、皆が人生の敗北者であるというメッセージが伝わってくる作品です。

 

 アル・パチーノにしても、世間一般の意味でのヒーローでは決してない。悪の権化、マフィアの親玉に過ぎない彼は正義の味方ではなく、一番上手く立ち回った悪役に過ぎない。彼がカッコよく見えるとすれば、それはルックスではなく、目の前に突きつけられた現実から逃げずに、悲壮な決意を持って対処していったからではないだろうか。

 

 ニーノ・ロータの音楽は全ての死に行く者へのレクイエムであり、生き残った者の苦しみを表現する魂の叫びでもある。『愛のテーマ』ほど哀しいテーマは存在しないのではないだろうか。音楽は完璧です。何年経っても色褪せない魅力というだけでなく、さらに年を経るごとに輝きを増している不思議な音楽です。

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 血の臭いが画面から漂ってくる作品多数ありますが、写し撮られているワンショットごとに血の飛沫がしっかりと空間に残っているような作品はこの作品を除いて存在しません。ざらついたフィルムの質感と血の臭いは上映中一度も消える瞬間がありません。

 

 ゴードン・ウィリスによって撮られた、暗すぎるほど見え難いローキー照明、圧迫感を与えるほど凄みがあるロー・アングル・ショット、そして皆を突き放すような引きの画面からはこれらの立場にいる者への彼自身の憎悪と軽蔑を見てとれる。

 

 彼によって撮られた薄暗い世界はまさにマフィアの世界そのものの胡散臭さ、不明瞭さ、陰気さ、鬱陶しさ、不信感、いかがわしさを映像だけで物語っている。カラーではありますが、この作品はフィルム・ノワールに他ならない。

 

 最高の芸術性と娯楽性を合わせ持ったフィルム・ノワールの頂点が『ゴッド・ファーザー』なのです。ゴードン・ウィリスが撮ったにせよ、負の世界を切り取った、このフィルムがなぜこのような魅力ある美しさで満たされているのか。

 

 マフィアとハリウッドとの癒着、マフィアと警察権力との癒着、マフィアと政治化との癒着など古くて新しい腐敗構造も美化される事なく、汚いまま、生のままで嫌な臭いを放っています。目を背けない姿勢を貫きつつも、綺麗な映画を撮ることができたのはゴードン・ウィリスのおかげだというのは明らかです。

 

 太陽の照りつける、明るい世界に出てきても、常に闇が付きまとい、闇が支配していく世界観は圧倒的な迫力で描き出されています。一枚一枚ショットたりとも疎かには出来ない絵巻物のように思えます。

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 見所は全てと言っても良い作品でして、冒頭でのゴッド・ファーザーと葬儀屋のやり取りとクロース・アップになるマーロンの手と指を見るだけで、この作品の展開にワクワクしてしまいます。マーロンが銃撃されるクリスマスのシーンで、何も出来ずに泣きじゃくり、座り込むだけのジョン・カザールの無力感は圧倒的です。

 

 アル・パチーノが復讐の第一歩を踏み出すレストランでの銃殺シーンはのちのち彼の人生に暗い影を落とす。ジェームス・カーンが浴びる百発以上の弾丸と頭を蹴られた傷跡を母はどう見たのだろうか。ハリウッドのプロデューサーのベッドに添い寝していた彼の愛馬の首と鮮血の驚きは他の映画では味わえない。

 

 そして最後に持ってこられた、クロス・カッティングで行われる洗礼式と大量殺戮の映像群の恐ろしさと編集の巧みさを誰が超えられると言うのか。新しい命に宿命を与える洗礼の式典と過去の闇の世界を一掃して、新しい闇の世界を構築するために行われる大量殺戮との対比のギャップの凄みを誰が超えていくのか。

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 あの式典はシャイアの娘(ソフィア・コッポラ)のために設けられた儀式ではなく、彼自身の新生のために設けられたものなのではないでしょうか。『ゴッド・ファーザー』での一連のクロス・カッティングによる殺戮シークエンスは『戦艦ポチョムキン』のオデッサ・シークエンスに映画史上で、唯一並び得る、爆発するほどの映像の激しさです。

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 ラストシーンでのアルとダイアンを隔てる一枚の丈夫な扉が意味する、これからの彼らに待ち受ける運命の苛烈さには戦慄を覚える。

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 タリアの結婚式、マーロンの葬式、アルの結婚、ソフィアの洗礼というコルレオーネ・ファミリーの冠婚葬祭の合間合間に起こるあまりにも血生臭いエピソードの数々はコルレオーネファミリーを崩壊させようと幾度となく試練を与え続けるが、それでも力強く残るのが家族の絆なのだろうか。外部からは決して崩せない。崩壊は内部から始まる。それは第二部以降で明らかになります。

 

 あと何回、ぼくはこの完璧な映画を見るのだろうか。そしてこれを超える映画に巡り会える時が来るのだろうか。同じ気持ちを持っていて、当時劇場でこの作品を観た人はその後、これよりも素晴らしい映画に出会う事は出来たのであろうか。

 

  上映時間175分間は決して長くはない。一つのショットが欠けただけでも、ひとつのショットの順番が変わっただけでも、この作品の価値は著しく損なわれてしまう。ビデオでパートⅠとパートⅡを繋ぎ合わせ、時系列を過去からはじめていく編集がなされたものがありましたが、あれでは無意味なのです。はじまりはあの葬儀屋とゴッドファーザーのシーンからでないと駄目なのです。

 総合評価 100点

ゴッドファーザーDVDコレクション

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